掌編「ラブちゃんの筑前煮」|地層3

午後の遅い日差しが、居酒屋「ここきた」の磨かれた窓ガラスを通り抜けて、店内をさざ波のように輝かせていた。まだ客の来る時間ではない。活田地区の学生街の喧騒も、この路地裏までは届かず、しん、と静まり返った店内は、夜の賑わいが嘘のようだ。渡良瀬愛子——ラブちゃんは、その静寂の真ん中で、大きなまな板と向き合っていた。

とん、とん、とん、と小気味よく響く包丁の音だけが、彼女の城である厨房を満たしている。相手は、筑前煮。彼女の十八番であり、店の心臓部とも言える一品だ。

土の香りがする立派なごぼうを、少し大きめの乱切りにする。れんこんは、それよりもさらに大きく。まな板の上の野菜たちを見ながら、彼女の脳裏には常連客の顔が次々と浮かんでいた。「馬楼さんは、この歯ごたえがないと満足しないんだよな」「このれんこんは、ひなちゃんが風邪ひいた時に食べさせてやりたいねえ」。野菜を切るという単純な作業が、彼女にとっては客一人ひとりへの手紙を書くようなものだった。

里芋は、つるりとした肌を傷つけないように丁寧に皮をむき、大きなものは二つに割って、別の鍋でことことと下茹でを始める。干し椎茸はじっくりと時間をかけて戻し、旨味をたっぷりと吸い込んだ琥珀色の戻し汁は、一滴たりとも無駄にはしない。

ぷるんと弾力のあるこんにゃくは、包丁を使わない。手のひらに乗せ、指で大胆にぷちり、ぷちりとちぎっていく。「こうするとね、味が染みるのよ」と、誰に言うでもなく呟く。その横顔は、母の面影をそのまま写していた。手間をかけること。それが、彼女の愛情表現のすべて。鶏もも肉の余分な脂を丁寧に取り除きながら、ふと、娘のエミを思う。あの子はちゃんと、栄養のあるものを食べているだろうか。寂しい思いはしていないだろうか。考え出すと、きりがない。

下ごしらえを終えると、愛子は店の顔である大きな鉄鍋に油をひき、鶏肉の皮目を下にしてじゅっと焼いていく。音だけでも香ばしく、肉の焼ける匂いが厨房に満ちる。すぐに、水気を切った根菜とこんにゃくを放り込み、鍋を大きく、力強く煽る。野菜の表面に油が回り、透明感が出てきたのを見計らって、里芋と椎茸を投入。そして、とっておきの椎茸の戻し汁と、醤油、酒、みりんを黄金比で合わせた調味液を、一気に注ぎ入れた。

甘辛い香りが、湯気と共に立ちのぼる。それは「ここきた」の匂いだった。常連客たちが「ただいま」と言って扉を開ける、その瞬間に迎える匂いだ。

年季の入った木製の落し蓋を乗せ、火を少し弱める。鍋肌で煮汁がくつくつと沸き、落し蓋の下で具材が踊るのが見える。あとは、この鍋が勝手に美味しくしてくれる。愛子は濡れた手をエプロンで拭うと、厨房から出て、まだ誰もいないカウンター席に腰掛けた。

ずらりと並んだ空の椅子。きれいに磨かれたテーブル。この夜を待つ静かな時間は、落ち着かない。早く誰かの笑い声が聞きたい。誰かの「うまい!」という声が聞きたい。孤独は嫌いだ。

いい頃合いと、落し蓋を取る。煮汁はとろみを増し、それぞれの具材は、食欲をそそる飴色に染まっていた。れんこんをひとつ、箸でつまんで口に運ぶ。シャキリとした歯ごたえの奥から、じわりと染み出した甘辛い出汁の味。完璧だ。彼女は満足そうに頷き、火を止めた。最後に、さっと塩茹でした絹さやを散らせば、完成だ。

がらり、と店の引き戸が開く音がした。

「ママ、もう開いてる? いい匂いさせてるねえ!」

一番乗りの常連客は、二つ目の落語家酔酔亭馬楼だった。その声に、愛子の顔がきらきらと輝き出す。

「あら、いらっしゃい! 今日は早いじゃない」

さっきまでの母親の顔はどこへやら、彼女はいつものパワフルな「ラブちゃん」になる。

「今夜の筑前煮はね、もう、絶品なんだから!」

「そんな、毎日おいしくなってったら、どうなっちゃうんだよ」

「あははは。ビールでいい?」

彼女の居場所は、やはりここだ。大鍋いっぱいに作った愛情を、今夜も惜しみなく注ぎ分ける。その一杯が、誰かの心を温めることを、彼女は誰よりも知っているのだから。

作・千早亭小倉


渡良瀬愛子|箱庭ここあん村の住人紹介
氏名:渡良瀬 愛子(わたらせ あいこ)性別・年齢:女性・45歳肩書:居酒屋「ここきた」のママ愛称は「ラブちゃん」。明るくパワフルで、情に厚く世話好きな村の「母」的存在です。絶品の筑前煮をはじめとする手料理で、訪れる人々に惜しみなく愛情を注ぎ…
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[コント台本・掌編 約600本]

主な舞台は、椎名町三丁目から広がる箱庭「ここあん村」。箱庭コント作家・千早亭小倉の手による、どこか懐かしい日常劇やクスッと笑えるコメディ、沁みる掌編を絶賛公開中です。これからも「読むシットコム」の世界を追究していきます。
*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。 *The articles on this site were written by a human, peppered with AI. *無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|箱庭コントを紡ぐ 話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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