
うたた寝は、浅い海の底を漂う感覚に似ている。
音のない世界。重力から解き放たれた手足。意識と無意識の境目で、クラゲのように、ただゆらゆらと。たたこはベッドの上で猫のように丸まっていた。窓から差し込む初夏の光が、彼女の黒髪を淡く縁取り、マリンスノーのようなきあめきが部屋を流れていく。
ここは小名地区のはずれにある、木造アパートの二階。窓を開けているせいで、商店街の遠いざわめきが、単調な響きで途切れ途切れに届いてくる。豆腐屋のラッパ、自転車のブレーキが軋む音、子どもたちの甲高い笑い声……、生活音すべてが、気怠い午後の空気に溶け込んで、まだ寝ていていいよと、たたこの鼓膜を撫でる。
「……ぐるっ」
獣のようなくぐもった声が、たたこの唇から漏れた。ゆっくりと、本当にゆっくりと、彼女は身を起こす。寝癖のついた髪が、重力に従ってばさりと肩に落ちる。一瞬一瞬が引き延ばされた、一連の動作。Tシャツの襟ぐりから覗く鎖骨の窪みに、汗が光っている。部屋の温度計は25℃を指しているが、肌を撫でる風はまだ涼やかで、汗ばんだ首筋を心地よく冷やしていく。
視界に映るのは、彼女の世界そのものだった。読みかけの漫画雑誌が床に開きっぱなしになり、登場人物が驚いた顔のまま固まっている。昨日のライブで着ていたのであろうバンドTシャツが、椅子の背でぐったりと死んだふりをしている。机の上には、飲み干されたエナジードリンクの空き缶と、ライブハウスのドリンクチケットが数枚。そして壁際には、彼女の分身とも言えるドラムの練習パッドが、主の帰りを待ってけなげに鎮座していた。
たたこの思考は、部屋の中を漂う埃のように、目的もなく彷徨う。
(……れんしゅう)
バンドの練習が、確か三時から。壁の時計の針は、一時半。まだ時間は十分にある。ある、はずだ。その思考が、窓の外を横切ったカラスの影に、あっけなく霧散する。「カア」と鳴いて、隣の家の屋根に消える影。それだけのこと。それだけのことに、たたこの心は数秒間、完全に奪われる。
我に返り、彼女は再び部屋の中へと視線を戻す。壁に立てかけてある、黒いナイロン製のスティックケース。長年の使用でところどころが擦り切れ、白い綿が覗いている。バンドのロゴのキーホルダーと、いつかのフェスで買った泥のついたラバーバンドがぶら下がっている。
「……うううう」
気合、というにはあまりに頼りない掛け声とともに、たたこはベッドから這い出した。素足の裏に、ひやりとしたフローリングの感触が伝わる。ぺた、ぺたと気の抜けた足音を立てて、スティックケースの前まで歩く。ジッパーに手をかける。滑りの悪くなったそれを、少し力を込めて引くと、がばりとケースの口が開いた。
中には、様々な種類のドラムスティックが、無造作に突き刺さっている。太いもの、細いもの、先端のチップの形が違うもの、木目の荒いもの、滑らかなもの。演奏する曲調に合わせて使い分ける。その日の気分にもよる。彼女の商売道具たち。
たたこは、そのスティックの束に、おもむろに指を差し入れた。かき混ぜる。からん、ころん、と乾いた木の音が響く。いつも使っている、一番手に馴染んだ一組を探していた。少し軽めで、重心のバランスが良くて、握った時に彼女の小さな手のひらにしっくりと収まる、あのスティック。ライブでも、個人練習でも、必ず最初に握る、お気に入りの相棒。
指先が、束の中を何度も往復する。しかし、あの馴染んだ感触だけが、どうしても見つからない。
「……あれ」
眉間に皺を寄せるでもなく、ただ、不思議そうに。
「……ない」
誰に言うでもなく、たたこは呟いた。そこにあるはずのものが、ただ、ない。のっぴきならない事実だけが、午後の光の中にぽつんと浮かんでいる。彼女はしばらくの間、がらんどうのようになったスティックケースの中を、虚な目で見つめていた。焦りや驚きが一周遅れでついてくる。
了
作・千早亭小倉



