
午後の遅い日差しが、居酒屋「ここきた」の磨かれた窓ガラスを通り抜けて、店内をさざ波のように輝かせていた。まだ客の来る時間ではない。活田地区の学生街の喧騒も、この路地裏までは届かず、しん、と静まり返った店内は、夜の賑わいが嘘のようだ。渡良瀬愛子——ラブちゃんは、その静寂の真ん中で、大きなまな板と向き合っていた。
とん、とん、とん、と小気味よく響く包丁の音だけが、彼女の城である厨房を満たしている。相手は、筑前煮。彼女の十八番であり、店の心臓部とも言える一品だ。
土の香りがする立派なごぼうを、少し大きめの乱切りにする。れんこんは、それよりもさらに大きく。まな板の上の野菜たちを見ながら、彼女の脳裏には常連客の顔が次々と浮かんでいた。「馬楼さんは、この歯ごたえがないと満足しないんだよな」「このれんこんは、ひなちゃんが風邪ひいた時に食べさせてやりたいねえ」。野菜を切るという単純な作業が、彼女にとっては客一人ひとりへの手紙を書くようなものだった。
里芋は、つるりとした肌を傷つけないように丁寧に皮をむき、大きなものは二つに割って、別の鍋でことことと下茹でを始める。干し椎茸はじっくりと時間をかけて戻し、旨味をたっぷりと吸い込んだ琥珀色の戻し汁は、一滴たりとも無駄にはしない。
ぷるんと弾力のあるこんにゃくは、包丁を使わない。手のひらに乗せ、指で大胆にぷちり、ぷちりとちぎっていく。「こうするとね、味が染みるのよ」と、誰に言うでもなく呟く。その横顔は、母の面影をそのまま写していた。手間をかけること。それが、彼女の愛情表現のすべて。鶏もも肉の余分な脂を丁寧に取り除きながら、ふと、娘のエミを思う。あの子はちゃんと、栄養のあるものを食べているだろうか。寂しい思いはしていないだろうか。考え出すと、きりがない。
下ごしらえを終えると、愛子は店の顔である大きな鉄鍋に油をひき、鶏肉の皮目を下にしてじゅっと焼いていく。音だけでも香ばしく、肉の焼ける匂いが厨房に満ちる。すぐに、水気を切った根菜とこんにゃくを放り込み、鍋を大きく、力強く煽る。野菜の表面に油が回り、透明感が出てきたのを見計らって、里芋と椎茸を投入。そして、とっておきの椎茸の戻し汁と、醤油、酒、みりんを黄金比で合わせた調味液を、一気に注ぎ入れた。
甘辛い香りが、湯気と共に立ちのぼる。それは「ここきた」の匂いだった。常連客たちが「ただいま」と言って扉を開ける、その瞬間に迎える匂いだ。
年季の入った木製の落し蓋を乗せ、火を少し弱める。鍋肌で煮汁がくつくつと沸き、落し蓋の下で具材が踊るのが見える。あとは、この鍋が勝手に美味しくしてくれる。愛子は濡れた手をエプロンで拭うと、厨房から出て、まだ誰もいないカウンター席に腰掛けた。
ずらりと並んだ空の椅子。きれいに磨かれたテーブル。この夜を待つ静かな時間は、落ち着かない。早く誰かの笑い声が聞きたい。誰かの「うまい!」という声が聞きたい。孤独は嫌いだ。
いい頃合いと、落し蓋を取る。煮汁はとろみを増し、それぞれの具材は、食欲をそそる飴色に染まっていた。れんこんをひとつ、箸でつまんで口に運ぶ。シャキリとした歯ごたえの奥から、じわりと染み出した甘辛い出汁の味。完璧だ。彼女は満足そうに頷き、火を止めた。最後に、さっと塩茹でした絹さやを散らせば、完成だ。
がらり、と店の引き戸が開く音がした。
「ママ、もう開いてる? いい匂いさせてるねえ!」
一番乗りの常連客は、二つ目の落語家酔酔亭馬楼だった。その声に、愛子の顔がきらきらと輝き出す。
「あら、いらっしゃい! 今日は早いじゃない」
さっきまでの母親の顔はどこへやら、彼女はいつものパワフルな「ラブちゃん」になる。
「今夜の筑前煮はね、もう、絶品なんだから!」
「そんな、毎日おいしくなってったら、どうなっちゃうんだよ」
「あははは。ビールでいい?」
彼女の居場所は、やはりここだ。大鍋いっぱいに作った愛情を、今夜も惜しみなく注ぎ分ける。その一杯が、誰かの心を温めることを、彼女は誰よりも知っているのだから。
了
作・千早亭小倉



