【登場人物】
はるひこ:10歳の長男。左利き。屁理屈が過ぎるときがある。
みちこ:母親。専業主婦。口数が少ない。いつもくたびれている。
なつひこ:5歳の次男。言葉は話さず、耳元で指をこすり合わせる。
【場面設定】
昭和40年代後半。夕暮れ。小田急線・成城学園前駅近くの開かずの踏切前。遮断機が下りたまま、けたたましい警報機がカンカンと鳴り続けている。みちこがなつひこと手をつなぎ、もう片方の手に買い物かごを下げている。はるひこは線路脇の柵に背中を預け、分厚い文庫本を開いている。
みちこ:(遮断機を見つめたまま)いつ開くのかしら。
はるひこ:(手にした分厚い文庫本をめくりながら鼻歌)上り、下りの舟人が〜。
みちこ:はる、こんな薄暗いところで、また国語辞典読んでるの?
はるひこ:違うよ、『赤と黒』だよ。
みちこ:また、新しい本? 『広辞苑』読めばいいじゃないの。
はるひこ:あれは重すぎるよ。電車にも持って乗れないし、字は小さいし。
みちこ:お父さんにせっかく買ってもらったのに。辞書なんてどれも同じでしょう?
はるひこ:お母さんも見たでしょう? あれは、膝に乗せると足がしびれるんだよ。文庫本はランドセルにも入るもん。
みちこ:で、その『赤と黒』は面白いの?
はるひこ:そんなのわからないよ。知らない言葉ばかりだから。
みちこ:それなのに持ち歩いてるの?
はるひこ:意味はさっぱりわからないけど、半分くらいまで来た。
みちこ:めくってるだけでしょう? あんた前もそうやって、途中で放り出してたじゃない。
はるひこ:あ、『新書太閤記』のこと? だって、テレビでやってたのが面白かったんだもん。
みちこ:あんたまさか、ドラマになると本を買ってるの?
はるひこ:『木枯らし紋次郎』は失敗した。お正月に見た「かくし芸大会」で面白かったから買ったんだけど。
みちこ:(ため息)あの、井上順が出てたやつね。失敗っていうか、あんたが悪いんじゃない。
はるひこ:だから、いまは厚い本を選んでるんだ。
みちこ:厚い本?
はるひこ:本はみんな面白いから、厚いとそれだけ面白いんだよ。
みちこ:面白いんだよって、そんなわけないでしょう。
はるひこ:あるよ。ページがたくさんあれば、面白さがそれだけいっぱい入ってるってことだし。薄い本だと、すぐ終わっちゃってもったいないもん。
みちこ:それならお父さんの部屋にある本も面白いから読んでみなさいよ。
はるひこ:広辞苑より重い本はエンリョしておきます。
みちこ:まったく、いい加減なんだから。
なつひこ:(耳元で親指と中指をこすり合わせる)らっら、らっら。
はるひこ:広辞苑は持っただけで腕が棒になりますからね。
みちこ:ほら、電車が来るから、少し下がりなさい。
(けたたましい警報音が鳴り響く中、目の前をごうごうと電車が通り過ぎていき、風が三人の服の裾を大きく揺らす)
なつひこ:だっ!
(電車が通り過ぎても、遮断機は上がらない)
はるひこ:『赤と黒』って、ジュリアン・ソレルって人が出てくるんだよ。
みちこ:知らないわよ。もう、読める本にしなさい。
(幕)
作・千早亭小倉



