
映画館「夕日座」のロビー。薄曇りの光が磨りガラスを通して床に落ちている。乾いた木と機械油の匂い。柱時計の振り子が規則正しく刻む音。
「支配人、これ見てくださいよ。機械が勝手に作った動画なんですけど。すごいんですわ」
おはぎはんは受付カウンターの木枠に手を置き、スマートフォンの画面を伊武に向けた。
伊武人具はウエスを台の上に置き、嫌がりもせずに画面を覗き込んだ。画面の中では、赤錆色の犬が草原を走り、背中から急に翼を生やして空へ浮き上がっていく。
「なんだこれ、鼻先が変に伸びてんな」
伊武が苦笑いを浮かべる。
「そんな細かいところ言わんといてくださいよ。昔の特撮かて、ピアノ線が見えてたり着ぐるみに皺が寄ってたりして、みんなそういうもんやと楽しんでたやないですか」
「あれは、生身の人間が苦労してたから、糸で吊ってても、縫い目が見えても笑えたんだよ」
伊武は手すりから手を離し、ウエスを四角く折り直した。「あのこと」の後に少し歪んだ柱の根元へ歩き、床板の隙間を足の先で軽く小突く。
「おはぎはん、そんなにそれがすごいって思うなら、そうだな、バーのカウンターで酒を飲んでる男の背中を、百種類作って見せてくれるかい」
「百種類? そりゃ、こいつら不満を言わないんで、できるって言えばできますけど」
「へ、できるのかい? そりゃすごい。便利な世の中だ」
伊武の顔が、主人からのエサを待つ子犬のような表情になる。
「待って待って待って、支配人。動画ですよね。そんなん、すぐにはできませんて」
おはぎはんが、慌てて手を振る。
「なんだ、そういうものかい。じゃあ、できたらでいいからな」
伊武はがっかりした風でもなく、そう言うと、おはぎはんを残し、映写室に続く階段を上っていった。
数日後の昼下がり、夕日座の入り口のシャッターを押し上げる音が響いた。
「ああ、おはぎはん」
ロビーのソファに座って新聞を読んでいた伊武が顔を上げる。その場にずっといるように、映画館という背景に溶け込んで見える。
おはぎはんは、黒い鞄からノートパソコンを取り出し、ロビーの丸テーブルの上に置いた。画面には、四角いサムネイルが几帳面に並んでいる。薄暗い店の奥、止まり木のような丸椅子、背中を向けた男の姿。ひとつひとつ、よく見ると、店の雰囲気も、調度品も、男の衣装も違いがある。
「持ってきました。100本」
おはぎはんは、キーボードの縁を指でつつきながら、眉を寄せる。その声には、作業をやり終えた達成感も、心地よい疲労も感じられなかった。
「最初は面白がって作ってたんです。けど、支配人。何十本も続けて見てるうちに、だんだん目が慣れてきてしもて。なんか、どれもこれも嘘くさく見えてきたんですわ」
「ははは、おはぎはん、ずいぶんと目が肥えたんじゃないか」
伊武は奥から湯呑みを2つ持ってきてテーブルに置き、温かい茶を注いだ。
「だから、もう見んでもええんと違いますか」
「いいから、せっかく作ってきたんだろ。見せてみなよ」
伊武はソファに腰を下ろすと、画面に顔を寄せた。おはぎはんが、最初の動画をクリックする。十秒ほどの映像が流れ、終わると次の動画をクリックする。
「ああ、そうやればいいんだな。ちょっと貸してみな」
要領をおぼえた伊武が、おはぎはんのパソコンを自分の目の前に置く。
「支配人、飛ばして見てもええですよ」
「いいんだよ。一本ずつ見なきゃ、作った甲斐がねえだろ」
伊武は律儀に、指先を動かして動画をひとつひとつ再生していった。おはぎはんは、「作ったのはわてじゃなくて」とぶつぶつ言っている。
二十本ほど過ぎたところで、伊武が画面を指差した。
「なるほどな。ほら、おはぎはん、こいつの肩の揺れをじっくり見てみな。経験の浅いエキストラが、無理に演技してるみたいにゆらゆら動いてるだろ。なんかみんな、次の指示を待ってる素人役者みたいだな」
おはぎはんも画面を覗き込み、苦笑いを浮かべた。
「言われてみれば、確かに落ち着きがないですわ。肘のあたりもぴくぴく動いて、たこおどりみたいや」
伊武はおはぎはんの言葉に笑みで返し、その後も、淡々と動画を見続けていった。
残り数本といったところで、伊武の手が止まった。
「これは、いい」
画面の中ではやはり、薄暗い木のカウンターに男がひとり、静かに腰掛けている。
「これなんかは、まだ座りがいい。背中の丸まり方に無理がないし、グラスを持つ手にもちゃんと重さが乗ってる」
伊武は湯呑みを取り、茶をひと口すすった。
「まあ、昔の名作映画のいい場面を、そっくり真似てるだけかもしれないけれどな。これは、何だったかな」
考え込み始めた伊武だったが、おはぎはんの間の抜けた「なるほど」の声に、湯呑みを置くと、次の動画へと進んだ。
そして、最後の一本。伊武が再生ボタンを押す。
「おい、これ」
着古した上着を着た男の後ろ姿が映し出された。男が深く息を吐き出したのがわかる。肩の線が沈み、右手が丸い氷の入ったグラスを持ち上げる。
「この背中は、さっきまでの連中と全然違うぞ。ちゃんと椅子の革に絶望の重みが乗ってる」
おはぎはんは画面に顔を近づけ、目を丸くした。
「あ、支配人」
「なんだよ」
「それ、違いますわ。それ、本物です」
「本物? 本物って何だよ」
「この前、ボストークで武功さんの背中をこっそり撮ったやつですわ。あ、わざとじゃないです。消し忘れです」
伊武は画面の中の、中年作家の背中をもう一回見てから、短く息を吐いた。ボストークは、武功の行きつけのバーの名前だ。
「なんだ、あいつか。道理で空気がどんよりしてるわけだ」
伊武の乾いた笑い声がロビーに響く。おはぎはんは腕を組み、首を傾げた。
「ってことはですよ。もしかして、武功さん、役者になったらいけるってことですかね?」
おはぎはんの言葉に、伊武は画面の中の武功を見つめ、急須に手を伸ばした。
「いや。こういうやつがいちばんダメなんだよ。カメラが回ったとたん、ポンコツになる」
おはぎはんは、やはり、「なるほど」と返すしかなかった。
了
作・千早亭小倉





