【登場人物】
徒 然士:ここあん大学日本文学科講師。言葉の形にこだわる。
鍋島 潤:ここあん大学日本文学科講師。生きた言葉を大事にする。
おはぎはん:ライター。現場の感覚を信じる。
【場面設定】
ここあん大学のラウンジ。テーブルの上に古語辞典と、ペットボトルの水が置かれている。

鍋島潤:徒然士先生、そこの水、取ってもらえますか。
徒然士:ああ、これか。はい、「みぃどぅ」。
鍋島潤:ありがとうございます。ん、今、なんて言いました。
徒然士:「みどぅ」と言ったんだが。
鍋島潤:みず、でいいですよね。この令和の世の中にわざわざどうしてまた「どぅ」なんて発音を。
徒然士:鍋島くんともあろう者が。昨日、古語辞典をめくっていて思い出したんだ。水はもともと「み」に、接尾語の「つ」が付いてできた言葉だ。一つや二つの「つ」と同じだよ。だから「みどぅ」だ。
鍋島潤:思い出したって、そんな軽い理由で……。
おはぎはん:ちょっとセンセーたち、朝から何の話してんの。原稿書きのキータッチのリズムが乱れるから静かにしてや。
徒然士:おお、おはぎくん。君は水を飲むとき、ちゃんと「みどぅ」と、「つにてんてんつけて」発音しているか。
おはぎはん:するわけないやん。っていうか、「すにてんてん」と「つにてんてん」って、なんか発音違いますのん? 喉乾いてる時に「つにてんてんのづ」なんて言ってたら、喉に引っかかってむせるわ。普通に「みず」でええやろ。
徒然士:平安の頃はな、「すにてんてん」と「つにてんてん」は全く別の音だったんだぞ。「すにてんてん」は擦れる音で、「つにてんてん」は舌を弾く「どぅ」に近い音だったのである。
鍋島潤:そうかもしれませんけど、室町時代にはその発音の区別もなくなったじゃないですか。言葉は生きてるんですから、使いやすいように変わっていいんですよ。
徒然士:それをだな、江戸の学者がわざわざ語源に従って「みづ」と書くべきだと定めたんだ。その歴史の重みを、君たちは簡単に捨ててしまうのか。
おはぎはん:重みとか知らんけど。なんか「みどぅ」って言うと、ドロドロの泥水みたいに聞こえへん?
鍋島潤:おはぎさんの感覚は正しいですよ。「みず」の方が、透明で、冷たくて、喉をサラッと通っていく感じがします。
徒然士:手触りばかり気にして、本当の姿を見失っている。鼻血の「ぢ」や、続くの「づ」と同じように、水も「みどぅ」であるべきなんだ。
おはぎはん:鼻血の「ぢ」はわかるよ。鼻の血やから。でも水は毎日何回も飲むんやから、言いやすい方がええやんか。
鍋島潤:戦後のルールでも、日常的に使う言葉は発音通りに「ず」に統一するって決まりましたよね。あれは賢い選択ですよ。
徒然士:妥協だ。ただの妥協じゃないか。舌先で「どぅ」と弾く、あの心地よさを捨ててしまったんだ。ほら、飲んでみたまえ。どぅ、だ。
おはぎはん:そんな「どうだ」みたいに言われても。なんかいやや。不味そうや。
徒然士:どぅ、だ。どぅ、だ。どぅ、だ。どぅ、だ(上機嫌というか、トランス)。
鍋島潤:先生、もうそのへんにしておきましょう。おはぎさんの原稿が終わらなくなりますよ。あと、正確を期するなら、先生の「どぅ」は純粋な破裂音の「du」で、厳密には、当時の「つにてんてん」のほうは破裂と摩擦を伴う有声歯茎破擦音の「dzu」です。
徒然士:(トランスから覚め)野暮なやつだ。
おはぎはん:あんたが言うな。
(幕)
作・千早亭小倉
![[公式]千早亭小倉の世界 | ここあん村案内所](https://atelier-cocoan.com/wp-content/uploads/2026/04/20260410_125128.jpg)



