【登場人物】
銀板 次郎:写真家。音巴里荘の住民。首から立派なカメラを提げているが、使うのはスマートフォン。他人のシリアスな姿を別のマヌケな形として捉えるユーモリスト。
朝霧 沙緒:作家。常磐荘の住民。世界の退屈や気だるい悲劇に沈殿している。
【場面設定】
夕暮れ前。古書店「古河書店」の軒先にある木製ベンチ。朝霧沙緒が薄いカーディガンを羽織り、冷えた缶コーヒーを手にして座っている。首から大きな一眼カメラを下げた銀板次郎が通りかかる。

朝霧沙緒:はあ。今日も世界はすっかり退屈だわ。私の悲劇も、この冷え切った缶コーヒーと同じくらい救いがない。
(銀板次郎が足を止め、ベンチの沙緒を凝視する)
沙緒:なによ。じろじろ見ないでちょうだい。人の絶望を面白がる趣味はないでしょう。
銀板次郎:沙緒ちゃん、動かないで。息もしちゃだめよ。
(首から下げたカメラには触れず、ポケットから慣れた手つきでスマートフォンを取り出し、素早く画面を向けてシャッターを切る)
沙緒:ちょっと。人の顔を勝手に撮らないで。(顔をしかめる)それに、首からぶら下げているその大きなカメラは何なのよ。使わないなら置いてきなさい。
次郎:これ? 首の筋トレ用の貯金箱よ。本物のカメラなんて滅多に使わないわ。落としたら壊れちゃうじゃないの。
沙緒:次郎さん、写真家として根本的に終わっているわね。
次郎:細かいことはいいのよ。それより沙緒ちゃん、さっきの座り方、見事だったわ。
沙緒:見事? この世界の退屈に耐えかねて、膝を抱えて沈み込んでいただけよ。
次郎:違うわよ。カーディガンのたるみ具合と、うなだれた頭の丸み。どう見ても、湿った土から生えてきた巨大なシイタケだったわ。
(沙緒、驚いた顔から、心底呆れた顔に)
沙緒:(頭を振って)夕暮れ時、うら若き作家が古書店の前でうたたねから目ざめたとき、ベンチの上で1本の巨大なシイタケに変わってしまっていることに気づいた、と。
次郎:私の目には最初からそう見えていたのよ。ほら、ちょっと待っててね。(手元のスマートフォンの画面を指で素早く操作する)
沙緒:見ないわよ。AI使って、くだらない加工するんでしょう。あちこちで噂になってる。
次郎:まあ、私ったら有名人? 私は、自分の頭の中の景色を現像してあげただけよ。はい、見てごらんなさいな。(スマートフォンの画面を差し出す)
沙緒:(渋々画面を見る)なにこれ。ベンチが土鍋になって、私の頭から湯気が出てるじゃない。
次郎:シイタケに見えたから、ついでにお鍋の具にしてあげたのよ。ぐつぐつ煮込まれて、とても美味しそうじゃないのさ。
沙緒:安直すぎる。誰が鍋の具になりたいと言ったのよ。私の抱えていた実存的な絶望が、居酒屋の冬期限定メニューみたいになってるじゃない。ダサいわね。
次郎:あら、お鍋は冬とは限らないじゃない。でも、説明的すぎたかもね。これは失敗だわ。
沙緒:失敗をあっさり認めるんじゃないわよ。
次郎:だって、シイタケに鍋を合わせるなんて、ひねりがなさすぎたもの。でもね、沙緒ちゃん。
沙緒:なによ。
次郎:絶望に、お出汁がしみたいい顔になってる。
沙緒:意味分からない。(缶コーヒーを一口飲む)
次郎:さ、次はあっちの路地裏の室外機の様子を見てこなくちゃ。昨日は、怒ったおじさんに見えたのよね。(スマートフォンをポケットに突っ込み、首のカメラを揺らしながら歩き去る)
沙緒:室外機を撮ってどうするのよ、まったく。
(次郎が、立ち止まり、振り返る)
次郎:あと、しいたけは、1枚、2枚って数えるのよ。
沙緒:うるさい!
(沙緒、去っていく次郎の背中を見送り、口元をわずかに緩める)
(幕)
作・千早亭小倉




