平日の午後の、きさらぎ文化会館の図書室。
そこは、差し込む光の筋のなかに埃がゆっくりと舞うのが見えるほど、完璧な静寂に満ちていた。美術書が並ぶ一角。少し高めの棚に収められた、一冊の分厚い本に、二人の女の手が同時に伸びた。
――アール・デコの装幀集。
ふたりの指先が、軽く触れる。
「あら、ごめんなさい。 大丈夫でした?」
先に声を上げたのは、矢尾玲子だった。計算され尽くしたソプラノの声が、図書室の静寂に柔らかく、しかししっかりと響く。彼女は完璧な笑顔を顔に貼り付け、さっと手を引いた。
「あ、いえ、こちらこそすみません。どうぞ、お先に」
もう一方の女、菜箸かなは、自然な仕草で手を引き、一歩下がった。相手に圧を感じさせない、リラックスした微笑みだ。彼女が身につけた上質なコットンのシャツが、その動きに合わせて、しなやかな影を作る。
「あら、うれしい。ありがとうございます。でも、この装幀集をお探しだったのでしょう?」
玲子は、かなの譲歩を当然のように受け取りながら、その実、視線は素早く相手をスキャンしていた。狙ってはいない、だが明らかに上質だとわかる服装。余裕のある佇まい。かなは、玲子のその値踏みするような視線に気づいていたが、気づかないふりをして微笑みを崩さなかった。
「ええ、少し仕事で参考にしたいことがあって。でも、急ぎではないので、どうぞごゆっくり」
「まあ、お仕事……! ステキさん、こういう美しいものに囲まれてお仕事されてる方、だーい好き」
「仕事」という単語に、玲子のソプラノがさらに半オクターブ上がる。彼女は大げさに片方の手を胸の前でひらひらさせながら、かなの服装を今度はあからさまに上から下まで眺めた。
「あ……はは、そんな大したことじゃないんです。翻訳の仕事で、少し時代の雰囲気を掴んでおきたくて」
かなは、相手の過剰な反応と奇妙な二人称に、笑顔をひきつらせそうになるのを堪え、視線を隣の棚の背表紙へ逃がした。
「ほんやくぅ? まぁ、知的! ステキさん、そういう知的なお仕事、本当に尊敬しちゃいます。やっぱり、自分を磨くことって、一番ステキなことですよね?」
畳みかけるように、得意の「自分磨き」という単語を口にする。かなが視線をそらしたのを、玲子は自らの魅力によるものと瞬時に解釈したらしい。
「そうですね、知らないことを知るのは、いくつになっても楽しいですよね」
かなは、相手の土俵には乗らなかった。「自分磨き」という言葉をそのまま受け流し、当たり障りのない事実へとすり替える。玲子はうっとりと頷くと、本のことなど忘れたように、かなの顔をじっと見つめている。
「……あ、それで、こちらの本ですが、どうぞお先に。私は他の資料を見ていますので」
かなは、意識的に声を一段明るくし、会話を本題に戻すことにした。
完璧な笑顔で、あくまで相手を立てる。「マウントを取らない」かなの態度を、玲子は「ステキさん(自分)の素敵さに相手が屈した」と受け取ったようだった。
「え、いいんですか? やだ、なんてお優しい……! ステキな方とお見受けしました。ありがとうございます。じゃあ、ステキさん、お言葉に甘えて、少しだけ……」
満面の笑みで本を受け取ると、玲子は勝利を確信したように、優雅な仕草でページをめくり始めた。
「ごゆっくりどうぞ」
かなは小さく会釈すると、その場を離れた。美術書の列の奥へと消えていく彼女の背中には、何の緊張も残っていなかった。
(了)
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