【登場人物】
はるひこ:10歳の長男。世界を事実の記録としてフラットに処理する絶対的観察者。
なつひこ:5歳の次男。言葉は話さず、「らっら、らっら」とだけ言っている。
まさよし:はるひこ兄弟の父親。弁護士で、基本的に不機嫌。
みちこ:はるひこ兄弟の母親。専業主婦で、いつも体の調子が悪く悲観的。
【場面設定】
昭和47年、秋。東京都世田谷区成城のはるひこ家の居間。みちこはソファで仰向けになり、まさよしは不機嫌そうに新聞をめくっている。なつひこは床に這いつくばり、十数本の白いレンゲを枕木のように並べている。
窓の向こうの道路から、パカパカと乾いた蹄の音が聞こえてくる。はるひこが、窓の外を見る。
はるひこ:お父さん、馬がいっぱい歩いていくよ。近くの大学の馬術部だね。ねえ、馬って、道路の右側を歩くのかな。決まりはあるのかな?
まさよし:(新聞から目を上げず)馬は道路交通法上、「軽車両」の扱いだから、左側通行が原則だろう。もっとも、馬術部の連中がそれを理解してどちらを歩かせているかなど、僕は知らんけどな。
はるひこ:左側を歩いているみたい。あ、馬が道にうんちをボロボロしてるよ。
まさよし:乾けば土に還るとはいえ、迷惑な話だな、おんぱりそ。
はるひこ:道路でうんちをしても怒られないの?
まさよし:軽車両が排泄してるだけだからな。それに、いちいち降りて片付けて、馬が暴れでもしたら危険だからな。論理的な判断といえなくもない。
みちこ:なんかにおうわね。日向のにおい。
まさよし:草食動物の未消化の繊維質だから、そんなににおわんだろう。
はるひこ:ええ! 鼻の奥がツンとするくらいくさいぜ。
まさよし:なにが、「ぜ」だ。
みちこ:(天井を見たまま)人の家の前にボロを置いていくことが論理的な判断だなんて。それなら、私がこうして寝転がっているのも、電気釜のスイッチを入れ忘れるのも、論理的な判断かもしれないわね。今夜は芯の残ったご飯よ。
はるひこ:ご飯よ。
まさよし:なにが、「よ」だ。
なつひこ:らっら、らっら。
(なつひこ、並べたレンゲの先頭をじっと見つめながら、耳元で指をシャリシャリとこすり合わせてニヤニヤしている)
まさよし:(新聞を勢いよく畳む)スイッチを入れ忘れるとは何事だ。芯の残った飯など、不作為の過失どころか実害だ。怠慢にもほどがある。
なつひこ:だっ。
(なつひこが突然立ち上がり、横向きにぴょんぴょんと三回跳ねてから、また床に戻り、並べたレンゲが崩れたのをきっちり直す)
はるひこ:(ノートにペンを走らせる)「馬のうんちよりもお母さんのたいまんがお父さんの頭から湯気を発生させる」。
まさよし:(頭からもわっとした湯気を出しながら)おい、聞いているのか。
(まさよしがだれに言っているのかわからないので、ほかのだれも返事をしない)
はるひこ:お父さんの湯気は、窓から出て行って、空に帰るのかな?
みちこ:(力なく)あはは。そのうち冷たい雨になって成城に降り注ぐわよ。はる、窓を閉めてちょうだい。風が冷たいわ。
(まさよしの頭から立つもあっとした湯気と、なつひこの「らっら」というハミングが、少しだけくさい成城の空気に混ざっていく)
(幕)
作・千早亭小倉
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