人と人との出会いというものは、振り返ってみるとひどく曖昧なことがある。 気づかぬうちに街角ですれ違っていたのかもしれないし、どこかの喫茶店のカウンターで、偶然隣り合って座っていたのかもしれない。 これは、後に湖畔でひとつのブックカフェを営むことになる二人の女性――氷上静と中野小春が、初めて明確に言葉を交わしたと思える、塩素の匂いが漂う夏の日の記憶である。(地層3)
【登場人物】
中野 小春:編集プロダクション「ぽんちょ」パート。全てを受け入れる器。水泳は健康維持のために通っている。リレーの第1泳者。
氷上 静:ここあん大学哲学科講師。身体を「世界を受信するアンテナ」として機能させるため、合理的な運動として水泳を選択している。リレーの第4泳者(アンカー)。
【場面設定】
夏の陽射しが差し込む、ここあん市民プールの屋内施設。水泳教室の親睦リレー大会の真っ最中。第1泳者の小春が泳ぎ切り、壁にタッチしたものの、第2泳者と第3泳者(教室の常連マダム2人)が、窓際の柱の陰で日焼けを避けながら世間話に夢中になり、レースが完全に止まっている状態。

(小春がプールから顔を出し、ゴーグルを外す。自分のコースの飛び込み台付近に誰もいないことを確認するが、怒る様子もなく、プールの縁に腕をかけてのんびりと水に浸かっている)
氷上静:(少し離れたアンカーの待機位置から近づいてくる。水泳帽に度付きのゴーグルという隙のない装備)第1泳者の中野さん。
中野小春:あ、はい。アンカーの氷上さん。いつも黙々と泳いでらっしゃる。
静:現在のこの状況を、あなたはどう認識しているの?
小春:えっと……、私のあとのお二人が、柱の陰でお話しに夢中になっている状態、ですね。
静:この状況で夢中になるお話って……。いったい何の話をしているの?
小春:「クロール」の話みたいです。プールの塩素の匂いって、ドイツ語でクロール(Chlor)って言うらしいですよ。水泳のクロールと同じ名前だわ、すごい偶然ねって、笑い合ってます。
静:(微かに眉間に皺を寄せる)……呆れた。泳法のクロールは英語の「Crawl(這う)」、塩素はギリシャ語の「Chloros(黄緑色)」を語源とするドイツ語の「Chlor」よ。語源も意味も全く無関係な二つの事象を、表層的な音の類似だけで結びつけて喜んでいるのね。
小春:そうなんですか。氷上さん、物知りですね。
静:そして、その非論理的な歓談のために、競泳のリレーという連続性が命の競技において、タッチの連続性が断たれているのよ。我々のチームはすでに失格の要件を満たしている。あなたは、中野さんは腹立たしくないの?
小春:(プールの水を手のひらで軽くすくい、落とす)腹立たしくはないです。全然違う言葉なのに、同じプールの中で二つのクロールが一緒にいるって、なんだか面白い偶然じゃないですか。
静:面白い?
小春:はい。それに、水の中って、体が軽くなって気持ちいいから。少し長く浸かっていられて、ラッキーかなって。
静:……ラッキー。ルールが破綻したこの不条理な空間で、あなたは事態を改善しようとするのではなく、現状を肯定して水に浸かり続けることを選ぶのね。
小春:氷上さんも、入ります? 私たちのコース、誰も来ないし、貸し切りですよ。
静:(絶句する)……競泳用のプールを、温泉か何かと勘違いしていない?
小春:ふふ。でも、怒って立っているより、水の中、気持ちいいですよ。
(静は、小春の全く悪びれない、すべてを包み込むような笑顔を見る。静の「理性の結界」が、論理の通じない小春の圧倒的な受容性の前に、ペースを乱される)
静:理解に苦しむ。あなたのその、底なしの受容性は。
小春:そうですか? あ、お二人、やっと気づいたみたい。
(遠くでマダム二人が慌ててこちらへ走ってくる。静は小さくため息をつき、ゴーグルを直す)
静:私は、この失格が確定したレースの最後を泳ぐという、極めて無駄な運動エネルギーを消費してくるわ。
小春:いってらっしゃい。応援してますね。
(静が静かに水へ飛び込む。小春はプールサイドに上がり、その無駄のない美しいフォームを、穏やかな目で見つめている)
(幕)
作・千早亭小倉
![[公式]箱庭の語り部 千早亭小倉](https://atelier-cocoan.com/wp-content/uploads/2026/04/20260410_125128.jpg)




