【登場人物】
平泉 慧:ここあん大学大学院M2(理論物理学)。究極の省エネ主義。
硯 毛八:45歳の書道家。芸術家アパート「音巴里荘」の住人。生活能力は極めて低い。
【場面設定】
年末の音巴里荘、硯毛八の部屋。こたつに入ってノートパソコンを操作する平泉慧。その傍らで、硯毛八が年賀状の束を前に筆を構えている。

硯毛八:これで最後の一枚だ。年賀状のやり取りを終えるにしても、最後の挨拶だけは、墨を引いて、私の手で書き上げねばならん。
平泉慧:一年前のちょうど今頃、先生が表裏のすべてを手書きすると仰った時、私はラベル印刷を勧めました。人間の手による運筆は、印刷機の電気的駆動に比べて著しく熱効率が悪いからです。
毛八:お前は相変わらず味気ないことを言う。これは、これまでの縁に対する、私なりの生命の燃焼だ。
慧:そして今年、私は年賀状というシステム自体の廃止を具申しました。にもかかわらず、先生は「これが最後」というメッセージを、わざわざ毛筆で何枚も量産している。エントロピーの無駄な増大です。
毛八:最後だからこそ、魂を込めねばならんのだろう。活字の冷たさに妥協して、私の書道家としての人生を締めくくれるか。
慧:――そういえば、先ほどここに回覧板が届いていました。(慧は視線を向けず、手元の画面を見つめたまま言う)表紙に書かれた、あの無駄に洗練された「回覧板」という文字。あれは先生の筆ですね。
毛八:(少し照れたように、鼻をこする)分かるか。あれは大家の理恵さんに頼まれてな。少し気合いを入れて線を引いたのだ。
慧:見れば分かります。私は小学生の頃から、その線の軌道を誰よりも近くで観測していましたから。世界で最も美しい、二次元空間における最適解の連続です。
毛八:慧。
慧:ですが、その文字も今ではすっかり擦れています。居酒屋のお品書きも、公民館の案内板も、この村にある文字の多くが先生の筆によって占有されています。あれもこれも、すべて先生の熱量の残骸です。
毛八:残骸とは人聞きが悪いな。
慧:私にとっては、思考の起点となった特別な軌道です。(棒読みに近い平坦な口ぶり)先生は私の初恋の対象ですから。
毛八:(筆を落としそうになる)なっ、お前、急になにを……!
慧:(毛八の動揺を完全に無視して)それが村の至る所で、雨風に晒されて摩耗していくのを見るのは、熱力学的にも、私の計算上でも非常に不快です。これ以上、その貴重なカロリーを安売りしないでください。
毛八:ろ、浪費ではない。日常の中にこそ、美は存在するべきだ。
慧:理解していただけたなら、残りの年賀状は私がパソコンでデータ化し、一括で送信します。先生はそのまま、絶対静止の境地でお茶を飲んでいてください。
毛八:いや、これだけは書かせてくれ。
(慧が、突然こたつに突っ伏す)
毛八:おい、どうした!?
慧:毎年のことですが、先生のお部屋で1年分の発話を消費しました。燃料切れです。少し休ませてください。
毛八:(慌てて立ち上がり、ストーブの上のやかんに気づく)いかん! お茶用の湯を沸かしていたのを忘れていた!
(毛八が慌てふためきながら、見事な毛筆で「水」と書かれた真鍮製の大きなやかんを火から下ろす)
慧:(こたつに突っ伏したまま、目だけを向けて)先生……相変わらず、無駄な散逸の多い生活ですね。ですが……。
毛八:……。
慧:ですが、いい字です。
(幕)
作・千早亭小倉





