【登場人物】
五郎寺 圭音:音巴里荘の音楽家。言葉数は少ないが、自身の音楽的様式には極めて頑固。
篠田 律:ここあん大学院生、分子系統学専攻。世界のあらゆる事象を遺伝情報の「情報と分岐」として解釈するオタク。
【場面設定】
ここあん大学のラウンジ「アンコンフォーミティ」。五郎寺圭音が、眉間に深い皺を寄せたまま、透明なビニール袋に密封された一冊の「本」を見つめている。 そこへ、遺伝情報の系統樹をノートに指でなぞりながら、篠田律が通りかかる。

篠田律:五郎寺さん、その顔は、今月の食費を機材のシールド代に回した時の形態ですね。机の上のそれは何ですか。なぜ書店で買ったはずの印刷物が、法医学サンプルのように密閉されているのですか。
五郎寺圭音:買ったんだ。アラーキーの『死小説』。
律:荒木経惟氏ですね。帯に、「写真で綴る“純文学”書下ろし作品」とありますね。視覚芸術の鬼才が言語という異なるメディアへ形態変化を遂げたということでしょうか?
圭音:そうだよ。いま、俺は、猛烈に純文学を読みたい気分なんだ。文字による、厳格な構成と拍節を感じたいんだよ。本のタイトルもこのビニール越しの手触りも、すべてが美しい。
(篠田が眼鏡を押し上げ、ビニール袋の上から帯の文字列を分子構造のように観察し始める)
律:分子系統学の視点から言えば、この「綴る」という動詞の選択が、すでにレトロウイルスの遺伝子配列のように狡猾な罠を含んでいるように感じます。本来、日本語の表現型における「綴る」は、ラテン語の texere(織る、編む)を語源とする テクスト(text)の生成、つまり文字を連ねる行為として系統分岐してきました。しかし、この帯の制作者は、文字ではなく「写真」という、全く異なる塩基配列に対してこの動詞を接合している。
圭音:それは、音楽でも同じだ。音符を並べることと、音そのものを物質として提示することは、調性音楽とミュジック・コンクレートほどの断絶がある。だが、これは、続けて「純文学」と明記されている。俺は、文字の配列に対して二千円を支払ったのだ。
律:写真は一瞥によって全情報が受容体に結合する。一方で、文字による記述は、読者の脳内でアミノ酸が合成されるように、段階的な情報のデコードを要求します。五郎寺さんは、その情報処理の速度差に、2000円分の価値を求めたわけですね。では、開封して配列を確認しましょう。
(五郎寺が、まるで爆弾を処理するようにハサミで慎重にビニール袋を切り開き、ページをめくる。 めくっても、めくっても、現れるのはモノクロームの写真のみ。文字は一行も存在しない)
圭音:全部、写真だ。
律:(圭音から本を受け取り、ページを高速でめくる)驚くべき表現型です。カメラに捉えられた新聞記事の写真などを除けば、文字数は完全に「ゼロ」。これは突然変異ではなく、最初から言語の遺伝子が一本も組み込まれていない、純度百パーセントの視覚的構造物、すなわち世にいう「写真集」です。
圭音:写真集かよ……!(頭を抱える)綴るって書いてあったろ、文学って言ったろ……!
律:いえ、帯は話しません。ただ、落ち着いてください。先ほどの私の仮説に基づけば、これは「文学の定義」そのものを揺るがす高度な批評性を持った――。
圭音:うるさい、俺は今、活字で書かれた、暗くて長い、救いのない話が読みたかったんだ。それがなぜ……(ページをめくっては何か語ろうとし、めくっては何か語ろうとし、言葉が出ない)。
律:言語化を諦めるのですね。
圭音:なぜ、おれが言葉で語らねばならないんだ。今月の残高はあと、3000円しかないのに。
律:(手元のノートに系統樹を書き足しながら)なるほど。純文学という大義名分に投資したつもりが、実質的な認知のバグによって、掴まされたのは、ただの高額な紙の束でしかないという見立て、世俗的な絶望。この事象を、我が系統樹の最下層に、新規の「エラーサンプル」としてタグ付けしておきます。
圭音:(写真を睨んだまま)この写真のコントラスト、俺の今月の通帳と同じくらい暗いな。文学!(もう一度、頭から、写真を見直す)
(幕)
作・千早亭小倉




