【登場人物】
氷上 静:現代思想家。ここあん大学哲学科講師(休職中)。事象を論理で解体しようとするが、自身の美学に反する「手垢のついた安易な比喩」に抗う強烈な自意識を抱える。
いときち:ガールズバンド「栗きんとん99」のギター。情熱的で喧嘩っ早い。
うたまろ:ガールズバンド「栗きんとん99」のボーカル。やや被害妄想気味。
たたこ:ガールズバンド「栗きんとん99」のドラムスにして、ここあん村唯一の議員。
【場面設定】
日曜の朝。小古庵アトリエ村の公民館、給湯室。徹夜の練習明けのバンドメンバーが朝食を作っているところへ、地域の哲学講座の準備に来た静がコーヒーを淹れに立ち寄る。

いときち:だから、目玉焼きは絶対にサニーサイドアップ(片面焼き)だって言ってるでしょ! 白身の海に黄身が黄身のままぽっかり浮かんでるのがいいんだよ。これぞ、食材に対するリスペクト!
うたまろ:それって、ただの生焼けでしょう? 黄身がドロって流れるの、苦手なんだよね。何かが崩れていくみたいでさ。両面をしっかり焼いて、黄身を守ってあげよう?
いときち:守ってって、うたまろの生き方と目玉焼きを一緒にしないでよ! フタをして蒸し焼きにするの? ダイレクトな熱で焼き上げてこそ、ロックでしょ!
(給湯室の隅で、氷上静がマグカップにお湯を注ぎながら、小さく息を吐く)
氷上静(心の声):フライパン上の低次元な口論。単なるタンパク質の熱変性の好みに、人生やロックといった過剰な意味を付与するなんて、知的怠慢そのもの。呆れる気すら起きないわ。
うたまろ:そもそも、いときちの目玉焼きは、攻撃的なのよ。黄身がむき出しで、いっつも私を睨んでくるんだから。
いときち:黄身は睨まないでしょ? 黄身は、「あたいは黄身だよ」って、ありのままの自分を主張してるだけ! これに、醤油をドバっとかけてやるのが最高なんだよね。
うたまろ:そんなの残酷じゃない! 表面は、ソースの甘みで、優しく包み込んであげないと、私は……。
(静はマグカップを口に運びながら、わずかに眉根を寄せる)
静(心の声):でも、待って。彼女たちの主張は極端ではあるが、自己の純粋性を保持し外界との摩擦を求める「サニーサイドアップ」と、自己を防衛し他者との境界を曖昧にする「ターンオーバー」という、本質的な二項対立の構造を成している。これは自我と他者の境界を巡る、実存的な葛藤のメタファーとして成立し得るのではない? いや、いけない。ただの朝食の話だ。
(そこへ、ドラムスティックを指先で回しながらたたこが入ってくる)
たたこ:(誰に言うでもなく)まったく、「徹夜で使っていいなんて聞いてませんよ」だってさ。来週の議会でまた怒られそう。(いときちとうたまろに)あれ、まだ焼けないの? お腹へったよ。
いときち:今、うたまろと「目玉焼き」道について……あっ、ちょっと、たたこ! 何してんの!
(たたこは無言でコンロの前の菜箸を手に取ると、ドラムスティックのように軽やかに操り、フライパンの中の目玉焼きを力任せにぐちゃぐちゃとかき混ぜ始める)
たたこ:てこてんてんてこてんてんてん、と
うたまろ:ああ……私の黄身、ごめん。
たたこ:何それ、新しいラブソングの歌詞? 別にいいじゃん。白身も黄身も、仲良くしてやろうよ。こうやって混ぜたほうが火の通りも早いし、分けやすいじゃん。てこてんてんてん、と。はい、たたこ特製スクランブルエッグの完成だよ。
いときち:ああ、黄色いロック魂が汚された。境界線がゼロだよ!
うたまろ:あれ? でも、これなら黄身が流れ出す恐怖もないし……なんだか、お皿全体が温かい黄色に包まれて、安心かも。
たたこ:え、魂とか安心とか、何の話? これなら、醤油でもソースでも、なんなら、コショーでも、何かけても、いや、かけなくても美味しいよ。ほら、食べよ、食べよ。
(静はマグカップを持つ手を小さく震わせる)
静(心の声):たたこさんが来て、何が起きた? 対立していた「自己」と「他者」という二つの概念が、外部からの無作為な暴力によって一度解体され、より高次の状態へと統合された。これは……これは……例えるなら!
いときち:確かにね、たたこが言うように、なんでもありか。新しいグルーヴが生まれそうだね。
うたまろ:うん。美味しそう。匂いもいいね。
(静は目をきつく閉じ、首を横に振る)
静(心の声):だめだ、例えるな。あの言葉だけは口にしてはいけない。19世紀のドイツ哲学が生み出した、今やあまりにも手垢にまみれ、通俗的となったあの言葉。素人評論家が知ったかぶって最初に使う、最も安易で恥ずべき比喩。あの言葉そのものの状況が目の前にあるとはいえ、専門家である私が、こんな日常のスケッチに対して使うなど……知性の敗北!
たたこ:ほら、熱いうちに食べよ。(静に)あ、静さんも食べる? たくさんあるから。
(フライパンいっぱいのスクランブルエッグを静のほうに差し出す)
たたこ:じゃーん、美味しそうでしょう? どう?
静:(勢いに押されて、つい口がすべったように)まさに、これは、黄身と白身のアウフヘーベン!
いときち:ああ、静さんがまた、かっこいいこと言った!
うたまろ:え、ベートーヴェン?
たたこ:違うよ。アジフライ弁当的な?
(3人の声がごちゃまぜに)
静:(床に突っ伏して、呻く)口にしてしまった、あの言葉を。フライパンの中の黄金の輝きに敗けた。
いときち:静さん、さっき何と言ったの?
静:(諦め、小さな声で)アウフヘーベン。
うたまろ:アウフヘーベン?
たたこ:アウフヘーベン!
いときち:なんかかっこいいね。ねえ、今度の私たちの新曲「卵焼きアウフヘーベン」ってよくない?
うたまろ:良いっ! ロックなのに守られてる感じ。
たたこ:静さんが名付け親だね。
静:やめてー。
(幕)
作・千早亭小倉







