【登場人物】
南花 おちば:劇団「かもかも」の女優。ゆるキャラ「ちいにゃん」の中の人。汗だくで実直。
硯 毛八:書道家。すべての事象を書道に結びつける不器用な男。
まっちゃん:居酒屋「あちこち」の大将。
【場面設定】
夕暮れ時の居酒屋「あちこち」。カウンターの隅で、硯毛八がちびちびやっている。そこへ、汗だくの南花おちばがやって来る。

南花おちば:(硯毛八の隣の席に座り)ぷはー。今日も着ぐるみの中、完全にサウナでしたよ。
硯毛八:まっちゃん、熱燗もう一本。(おちばに)それにしても、随分といい汗をかいているじゃないか。
おちば:あ、毛八さん、いい汗も悪い汗もないですよ。大将、ウーロンハイ、焼酎抜きで。
まっちゃん:焼酎、サービスしてやろうか?
(おちば、手をひらひらさせて、断る)
毛八:いや、まさしくいい汗が首筋を伝っている。それは、ただの水分ではない。紙の上にたっぷりと含ませた墨が、乾く直前に見せるわずかな線の盛り上がり。いわば肉体というキャンバスに落とされた、見事な潤筆の美だ 。
おちば:へえ、書道にも立体美があるんですか?
毛八:愚問だな。書とは紙に墨を塗る平坦な作業ではない。紙の奥へ深く染み込ませる力と、表面へ立ち上る線の圧力が生み出す、三次元の立体芸術なのだ。
おちば:立体芸術! 私が入ってるちいにゃんも、立体芸術の一種ですけど、40分も入ってると、もう髪の毛ドロドロになりますよ。
(まっちゃんがおちばの前に出したウーロン茶を、おちばがぐびぐび飲む)
毛八:(おちばの飲みっぷりに見とれつつ)ちいにゃん!
おちば:はい! あ、すみません。(照れる)ついクセで答えてしまった。
毛八:ちいにゃん、あの中心軸の定まらない、丸とも四角ともつかないいびつな造形の生き物か。
おちば:ええ、まあ。ここあん村のゆるキャラとして、子どもたちには大人気なんですよ。ただ、重心がひどく偏ってて、やたらと動きにくいのが難点で。
毛八:当然だ。
おちば:当然? 毛八さんも、見ててわかります?
毛八:わかるも何も、あれは元来、動くことを前提としていない。二次元の平面において、「静」の中に爆発的なエネルギーを閉じ込めた魂の軌跡なのだ。
おちば:魂の軌跡? 魂の痕跡と重心の偏りと、何か関係が? 魂も何も、ちいにゃんは、近所の幼稚園児が描いた絵を採用したんですよね? 役場のおっちゃんも、そう言ってましたけど。
毛八:なに? 幼稚園児だと?
おちば:はい。「ちいさな子が描いた、純粋無垢な猫の絵」から生まれたんだって。だから、「にゃん」なんですよね。「ちい」で「にゃん」。
毛八:(持っていたおしぼりをカウンターに叩きつける)ばかな! あれは、私がこの店のカウンターで、「猫」という漢字の「田」の部分をどこまで崩せるか挑み、箸袋の裏に書き殴った究極の毛八体だぞ! 「小名地区にゆるキャラを」なんて話をたまたま横でしていた役場の連中が気に入って、私の箸袋を持っていったんだ。それが、あれよあれよと、小名地区のゆるキャラとなり、「ちいにゃん」などと名付けられ、いつの間にか、ここあん村のゆるキャラに祭り上げられつつある。
おちば:ええっ!? ちいにゃん、「字」だったんですか!?
毛八:そうだとも! ちいにゃんのポイントは、「田」の中央にある交差だ。現代のフォントなどではおなじみの直角の「+」に近い線を、動的な勢いを出すために「メ」の字のように斜めに交差させているのだ! 元は草書体だが、毛八体として、その上を行く、軸の傾きと張りの美学を極めたものなのだ!
おちば:あーっ! だから着ぐるみの胴体、真ん中で「メ」みたいに斜めになってるんですね! 文字の「メ」の傾きをそのまま立体にしちゃったなら、着ぐるみの重心も斜めに傾いていて当然ってことですね!
毛八:二次元の書における極上の「傾き」を、そのまま三次元のぬいぐるみに縫い合わせたら、そうなるだろうな。
おちば:そっか、左右のバランスがおかくていいのか。私、あの中でいつも傾いた重心に耐えるために右足で必死に踏ん張ってるんです!
毛八:空間の傾きを、己の身体の重みで補正しているのか。お嬢さん、見上げた書道精神だ。毛八体を後世に残す体現者、ここにありだ。まっちゃん、このお嬢さんに、熱燗を一本。
(おちば、手をひらひらさせて断る)
おちば:いえ、ただの過酷な肉体労働です。
毛八:今夜は気分がいい。また新たな、そしてより完全な設計図を書いてやろう。ニューにゃんの誕生だ。大将、割り箸を一膳もらうぞ! 箸袋が必要だ!
(まっちゃん無言で、カウンターに置かれた割り箸の束を奥の棚へと隠す)
おちば:ニューにゃん誕生せず、ですね。
まっちゃん:毛八さん、その豚バラ串、冷める前に食べてよ。
毛八:むむむ。釈然とせん。
おちば:いいじゃないですか。書道は立体、私が保証しますから。
作・千早亭小倉





