【登場人物】
茜:「優しい物語」を書く児童文学作家。無駄な飾りを嫌い、地に足のついた論理を愛する。
菜箸かな:しなやかな知性を持つ翻訳家。丁寧だが親しみやすく、お酒が大好き。
氷上静:ブックカフェ「シズカ」オーナー。現代思想家。すべての事象を言葉で解体しようとする。
【場面設定】
湖畔のブックカフェ「シズカ」。窓の外には静かな水面が広がる。窓際の席に向かい合って座る、茜と菜箸かな。テーブルの上には、淹れたての珈琲。茜が1通のはがきを菜箸かなの前に差し出す。

菜箸かな:(はがきを手に取り)なになに。ファンレター?
茜:おたより、ね。時々来るの。書いてあることが、少しおもしろくて。ねえ、読んでみて。
かな:え、いいの? どれどれ。「くまのプーさんと羊をめぐる冒険を続けて読んでいたら、会話のテンポがそっくりでびっくりしました」? 村上春樹の『羊をめぐる冒険』と、ミルンの『くまのプーさん』が? プーは、石井桃子さんの訳かしらね。そっくりかな?
茜:そっくり、らしいの。
かな:そっくり、らしい。
茜:そう。先を読んでみて。
(かな、再び、ハガキに目を通す)
かな:「会話が全然前に進まない感じが同じ」かあ。確かに、深刻な事件が起きているのに、相手の言った言葉をそのまま繰り返して、そこから独自の理屈で別の話へ滑っていくもんね。
茜:滑っていく。別の話へ。大雨で閉じ込められても、怪物が出そうだなんてときでも、感情を昂らせずに淡々と皮肉を言ったり。
かな:淡々とした皮肉。(思い出したように、登場キャラの名を上げる)イーヨー!
茜:イーヨー!
かな:あの感じね。家が壊れても、しっぽがなくなっても「どうせ僕の誕生日なんて誰も覚えていないさ」って、最初から世界を諦めているような、乾いたユーモア。
茜:村上春樹の初期の主人公が言う「やれやれ」と、まったく同じ諦念よね。
かな:それに、ハチミツの壺の数とか、パスタの茹で加減とか……。
茜:身の回りの些細な道具や生活の動作から、急に哲学的な思索が始まるところも似ているかも。
かな:筋の進行に関係のない、とりとめのない雑談を、いちばん丁寧に書いているのよ……って、待って。茜さん。
茜:なに?
かな:私たち、さっきから相手の言葉をオウム返しにして、淡々と脱線しながら話してない?
茜:オウム返しにして、淡々と脱線しているわね。これを脱線と言えばだけど。
かな:ほら、それ。その受け答え自体が、もうあの文体じゃない。
茜:私たちはただ、珈琲を飲んで、当たり前の事実を整理しているだけよ。
かな:その過剰な感情を交えない落ち着き払った開き直りも含めて、完全にあのリズムに巻き込まれているのよ。
茜:ふふ。ねえ、おたよりの最後、見てみて。
かな:どれどれ。「40年前に村上春樹を読んだときは、新鮮でおしゃれだと思ったのですけれど」。けれど、なんだろう? 新鮮でおしゃれ。(少し考える)確かに、と言っても、私たち生まれてなかったけどね。
(顔を見合わせ微笑む)
茜:本当は、その逆だったんじゃないかしら。
かな:逆?
茜:新鮮もおしゃれも、不思議さやどこか不安を感じさせる展開も、おめかし用の看板で、実は読んでいる本人も気づかずに、とてもなじみのあるものに包まれていたんじゃないかしら。
かな:なじみのある感覚。(考える)お風呂上がりの乾いたタオルとか。
茜:履き慣れたスリッパみたいな。どちらの作品も、いちばんきれいに整えられた日本語の引き出しから、言葉を選んでいると考えたら? 英米文学特有の乾いたロジックを背景に持ちながら、余計な飾りを省いて、主語と述語がぴしっと背筋を伸ばしている言葉。
かな:翻訳の言葉でいうと、すごく端正な、上質な翻訳日本語だね。私たちは子どもの頃から、そういう「言葉の毛布」に包まれて育ってきたんだと思う。
茜:だから、読者はその毛布の温かさに、無意識のうちにほっとしているのよ。新しさにハラハラしているようでいて、自分がよく知っている安心感に、静かに帰っていくだけ。
かな:なるほどね。他の児童文学だと、ドリトル先生は外へ冒険に出ていくお勉強の話だし、ムーミンは他人の面倒くささや自然の厳しさに直面するから少ししんどい。アリスは理不尽な夢のルールに本人が一番苛立っている。
茜:それに比べて、プーさんの森は、大人の都合や競争から完全に切り離された、閉じたお部屋だから。
かな:安心で、懐かしくさえある、と。村上春樹の小説に出てくる、山奥の別荘や古いホテルも同じだよね。どれほど外の世界が不条理でも、主人公は丁寧に部屋を片付けて、爪を切る。身の回りの小さなルーティンをくり返すことで、外の嵐を締め出している。
茜:当時は「村上春樹を読む最先端な自分」っていう熱狂の上着を着ていたから、その下にある言葉の骨格、というか着心地がなぜ良いか、縫製まで見えていなかった。それが40年の時間を経て、当時の流行という外装が剥がれ落ちたことで、純粋な文章の手触りが直接伝わってきたんじゃないかしら。
かな:2冊を並べて読んだからこそ、会話のズレや文末の整え方の一致が、コントラストがばっちりついて、くっきりしたわけだ。
茜:それに気づくと、冷めた珈琲だって、ちょっと愛おしく思えるでしょ?
(コーヒーカップを手でくるみ、中を覗く)
かな:ふふ、そうだね。返事、なんて書くの? それとももう書いた?
茜:迷ってたんだ、どう書くか。かなさんと話してて、ちょっと思った。「私たちは、お布団の中から一歩も出ずに、世界中を旅しているのですよ」って、どう? 失礼かな?
かな:(頭をゆっくり振る)最高のお返事。ばっちり決まったね。今夜は「あちこち」で冷えたビールでも飲もうよ。面白いおたより見せてくれたお礼に、私がごちそうするから。
茜:やったー。じゃあ、出発しよっか。
(かなと茜が席を立つ。氷上静がレジの対応をする)
静:(ふたりに声をかける)ごめんなさい、どうしても耳に入ってきてしまって。
茜:全然構わないわよ。
かな:静さんも入ればよかったのに。
静:おふたりの話を聞きながら、ある情景が思い浮かんで。「端正な日本語」が体温を保つための毛布なのだとしたら、ジョン・アーヴィングの物語はどう位置づけられるかしら。彼が好んで登場させた「熊」や、くり返されるおとぎ話の仕掛け。あれは、あまりに不条理で残酷な現実の毒気を抜き去り、傷つきやすい読者を守るための、精神的なシェルターという物語だったのではないかしら。
(かなと茜、顔を見合わせる)
茜:『ガープの世界』には「プー」も登場する。
かな:ああ、もう。また静さんがそんな難しいこと言うから、飲みに行けなくなっちゃったじゃない。
茜:静さんもお店の看板を下ろして、みんなで飲みに行きましょう。議論の続きは、乾杯してからね。
(幕)
作・千早亭小倉






