【登場人物】
平泉 慧:無駄なエネルギー消費を嫌う、ここあん大学院生(理論物理学専攻)。
氷上 冬子:病や老いさえも肯定的に面白がる、飄々とした佇まいの老婦人。
【場面設定】
互いを知らない二人が、廃線と知らずバス停で待ち続ける郊外の一本道。

(平泉慧は両足を肩幅よりわずかに狭く開き、背筋を伸ばして正面を見据えたまま静止している。氷上冬子は腕時計と時刻表を交互に見比べ、小さく息を吐く)
氷上冬子:もう15分も過ぎているわね。この路線、普段からこんなに遅れるのかしら。
平泉慧:(前方を見据えたまま、首も動かさずに答える)定刻を14分超過しています。私は普段この路線を利用しないので確証はありませんが、一本道ですから、前方の交差点での右折車による渋滞でしょう。
冬子:(その場で軽く足踏みをしながら、慧を見る):あなたもこのバスは初めてなのね。それにしても、よくそんなにまっすぐ立っていられること。
慧:垂直に重心を落としているだけです。余計な力は入っていません。
冬子 :見ているこちらは肩が凝りそう。ねえ、寒くはないの? 少しは体を動かしたほうが温まるでしょうに。
慧:静止しているほうが熱を逃がしません。動いて衣服と皮膚のあいだの空気を入れ替えると、体表温度が下がります。
冬子:(手首を軽く回す)理屈はそうかもしれないけれどね。じっとしていると、体の節々が錆びついていくような気がするのよ。血を巡らせておかないと、バスが来たときに足が出なくなりそうで。
慧:歩行に必要な筋力は、静止状態からでも瞬時に発揮できます。事前の予備動作は、単なるエネルギーの浪費です。
冬子:(平泉の立ち姿を観察する)浪費ねえ。あなた、もしかして何かの武道でもやっているの?
慧:いいえ、何も。
冬子:なんだか、いつ敵が飛び出してきてもいいように構えているみたいだから。
慧:外敵に備えているわけではありません。内部の消費をゼロに近づけているだけです。
冬子:省エネ。でも、待っている時間くらい、もっと気楽に体を緩めればいいのに。
慧:(正面を向いたまま、視線だけをわずかに落とす)気楽にと言われますが、あなたも先ほどから32回、重心を左右に入れ替えています。その都度、足首と膝に負荷がかかっています。疲労を分散させるつもりなら、標柱に寄りかかるほうが支持基底面が広がり、筋活動を抑制できます。
冬子 :あら、私の分の数まで数えてくれていたの?(冬子は可笑しそうに目を細める)服が汚れそうで嫌なのよ。それにね、こうやって体重を行ったり来たりさせていると、自分の生きている重さが確かめられて心地いいの。
慧:心地よさのために筋肉を伸縮させるのは、非効率に思えますが。
冬子:「何とかパ」の話? 人間、効率だけで生きていたら、年を取るのが嫌になっちゃうわよ。どうせ、あちこちガタがきて、燃費が悪くなる一方なんだから。
慧:経年劣化に伴う出力低下は物理的な不可逆過程です。だからこそ、残存エネルギーの管理が重要になるはず。
冬子:他人事? でもね、ケチケチ残しておいても、使い切らないまま終わっちゃったら損じゃない。
慧:損得の問題ではありません。無駄な動きをしない、という規律の問題です。
冬子:ふふ。やっぱり、頑固な武道家みたいよ、あなた。
(遠くから、大型車の走行音が響いてくる。ただ、やってきたのは大型ダンプカー。ふたりとバス停を揺らすように、大きな車体が通り過ぎる)
冬子:(停留所の標柱の側面に貼られた紙がひらひらとする)あら、これ何かしら。
慧:(貼り紙に目を遣る)この路線は、先月いっぱいで運行を終了したとあります。
冬子:廃線ということ? このバス停、なんで立ってるのかしら。
慧:撤去の遅延でしょう。ここあん村ですから。
冬子 :ずいぶん冷静ね。「何とかパ」が悪いでしょうにね。
慧:確かに、あなたが立っていらしたので、バス停だと見誤りました。
冬子:まったくね。どうりで誰も並んでいないわけだわ。ここから駅までは、歩いて行ける距離かしら。
慧:(端末の画面を一度だけ確認する) 直進でおよそ2キロです。
冬子 :2キロね。20分かそこらで行けるかしら。歩くしかないか。(バッグを持ち直す)
慧:どうぞ、先に出発なさってください。
冬子 :あら、一緒には行かないの? 旅は何とかでしょう?
慧:はい。どうぞお先に。
冬子:私の足が遅そうだから、気を使ってくれているのかしら。
慧:いえ。他人に歩幅を合わせるのが煩わしいだけです。
冬子:(慧の表情を見て)私も賛成。自分の足の裏と相談しながら、のんびり行きたいもの。
慧:50メートルほど間隔が空いてから、私も歩き出します。
冬子 :ずいぶん正確な車間距離ね。じゃあ、お先に失礼するわ。ねえ、こういうの昔の算数でなんかあったわよね。途中で追い越されるの。
慧:旅人算です。あなたが習ったのが昔というだけで、私も学びました。
冬子 :じゃあ、追いつかれないように行くわね。
慧:定速で進んでいただければ結構です。
(冬子が一定の歩調でゆっくりと歩き始める。慧はその場に直立したまま、遠ざかる冬子の背中を見つめている。冬子の姿が十分に離れたところで、慧もまた正面を向いたまま足を前に出す)
(幕)
作・千早亭小倉




