【登場人物】
岸辺義道:ここあん大生。映画監督志望。すべてをシネマティックな構図や文脈として受け止める。
ぺらいちまい(えんぴつ):文士気取りの男。自身の身体の軋みや生活の困窮を、無意識に高尚な言葉へすり替える。
【場面設定】
ここあん村の映画館「夕日座」の前。古びた案内板に『去年マリエンバードで』のモノクロポスターが貼られている。義道とえんぴつが少し距離を置き、同じポスターを見上げている。

岸辺義道:ええタイトルやな、これ。「去年マリエンバードで」やて。口の中で転がすだけで、南仏のカフェのテラス席が見えてくるわ。極上のエスプレッソの香り付きでな。
えんぴつ:(義道のほうをチラッと見て)テラス席かい。ずいぶん風通しのいい場所を思い浮かべるんだね。「マリエンバード」、僕にはもっと、逃げ場のない密閉された空間のように響くけれど。尋常じゃない熱気に、ひたすら耐えるような場所さ。
義道:なるほど。避暑地の古いホテルの一室、男女が閉じ込められた息苦しい空気感か。その閉塞感、わかる気がするわ。
えんぴつ:耐えきれなくなって冷水に身を投げて、あとは乾いたベンチで虚脱感に浸るしかないのさ。
義道:恋の熱狂のあとに訪れる、冷え切った虚無感な。視線を合わせなくても、もう全部終わったってわかるあのアンニュイな空気。ええ表現やな。
えんぴつ:そもそも「マリエンバード」って何なんだろうね。昨日の過ちのせいで、身体の節々が軋んで悲鳴を上げている状態。立ち止まることすら億劫になるあの重い感覚を、そう呼んでいるんじゃないのかい。
義道:身体の軋みが「マリエンバード」!? 地名ではなく、愛憎のもつれをそう表現したわけか。あんた、なかなか文学的な言い回しするやんか。
えんぴつ:文学的かどうかは知らないよ。切迫した状態を、無理やり気取って呼び替えた隠語の類に思えるのさ。
義道:他人に言えん秘密の情事を隠語に託して語り継ぐわけか。実にシネマティックや。
えんぴつ:手持ちのすべてを失いかけて、今日の糧すら怪しい人間同士が、まともに顔を合わせられるはずもないからね、「マリエンバード」。
義道:持てるものすべてを投げ打つ破滅的な愛、それが「マリエンバード」か。(初めてえんぴつのほうを向き、両手で四角いフレームを作って覗き込む)その立ち姿のやつれ具合、映画の冒頭のワンカットとしてすごく完成度高いで。
えんぴつ:やれやれ、勝手にフレームに収めないでくれないか。それよりも、君は、この頭についている「去年」という言葉をどう思う。ずいぶん冷酷だと思わないかい?
義道:そう、そこなんよ。ただのマリエンバードやなくて、「去年」がついた途端に、もう二度と戻らん過去の記憶として完成されるんや。
えんぴつ:戻らない過去、ね。確かに年末にポストに届く冷淡な通告や、すでに期限の切れてしまった猶予を思い出して、胃のあたりがきりきり痛んでくるよ。
義道:ポストに届く? 苦い後悔を美しい言葉で覆い隠すなんて、大人の嗜みやんか。このタイトルひとつで、過去の失恋すら一級品の芸術に昇華されるわ。
えんぴつ:惨めな失敗は、もっともらしい名前で飾り立てないと、やっていられないからね。
義道:格好つけて背筋を伸ばすための嘘なら、映画として最高やろ。現実をそのまま引きずってもしゃあない。
えんぴつ:(コートのポケットに手を突っ込み、二枚の硬貨を指先で擦り合わせる)確かに「マリエンバード」と呟いている間は、自分がひどく知的な生活を送っているような錯覚を覚えるよ。手元には、指先で数えられるだけの丸い金属片しか残っていなくてもね。
義道:ポケットの小銭を握りしめながら、頭の中では地中海の風を感じてる。それ、めちゃくちゃドラマチックやないか。
えんぴつ:君はどこまでも前向きな鑑賞者だね。
義道:中身がどんな映画か知らんけど、このポスターの前で足止めただけで、今日はもう十分元取れた気がするわ。
えんぴつ:そこは同感だよ。中に入る余裕のない僕にとっては、この看板の文字を眺める時間こそが、唯一許された贅沢だからね。
(幕)
作・千早亭小倉





