
晩秋の夕暮れ、断崖の狭間に建つ木造の温泉宿「ジャッポーン」の番台には、深い霧とともにひんやりとした山の冷気が吹き込んでいた。脱衣所の奥からは、硫黄の混じった重い湯気が漂っている。
ここあん大学の学長航三津子は、番台のカウンターで、下足箱の木札に平やすりを当てていた。しゅっ、しゅっ、と乾いた規則正しい音が板張りの土間に響き、削り粉が白く積もっていく。
引き戸が勢いよく開き、朝霧沙緒が入ってきた。文壇アパート「常磐荘」に暮らす作家である。カーディガンを羽織り、火のついていない煙草を指に挟んだ沙緒は、丸めた冊子2冊をカウンターの上に放り出した。
「これ、あなたが書いたのね」
三津子はやすりの手を止めず、転がった冊子に目を向けた。ここあん高校の生徒たちが刷った同人誌『ペンタ』だった。
「いらっしゃい。この時間じゃ、霧でまわりが見えなかったんじゃない?」
「霧なんてどうでもいい。目を通したら、高校生の同人誌に、ずいぶん手慣れた大人が紛れ込んでいるじゃない。ペンネームはMitsuko」
沙緒は苛立ちを隠さない。手にした煙草をカウンターの角に押し当て、唇を尖らせた。
「『不完全な円』に『仮面と皮膚』。能面を持ち出して批評家の鼻っ柱をへし折る留学生も小洒落ていたけれど、殊にあざといのはもう一本よ。パリの路地裏で人生は摩耗だの、閉じない円が詩だの。だいたい、ルルーシュの『男と女 人生最良の日々』を引き合いに出すなんて、ずるいじゃない」
「あら、気付いたのね」
「気付くに決まっているでしょう。役者の名前と原題のフレーズだけ散らして、映画のタイトルすら出さないで匂わせて。私だってあの映画は好きなのよ。半世紀分の傷を引き受けたアヌーク・エーメの皺も、トランティニャンの彷徨う記憶も、あれは本物だわ。だからこそ腹が立つのよ。あんなふうに手慣れた道具みたいに扱われて」
「道具になんてしていないわよ。本当に美しいと思ったものしか並べていないわ」
「その余裕が鼻につくの。私の領分を気取っているようにしか見えないわ。絶望の底まで降りたこともないくせに、もっともらしい顔をして不完全さを肯定して」
「放っておくとあの子たち、頭の中だけで考えた言葉ばかり並べるでしょう。肩を怒らせて歩くと、敷石で転んで膝を擦りむくのよ」
「擦りむけばいいじゃない。擦りむいて痛がるのが若さじゃない」
「少し息を抜く場所を作ってあげただけよ」
三津子はやすりを止め、削りかけの木札を沙緒の前に差し出した。
「ちょっとそれ、持っていてくれる?」
沙緒は眉をひそめながらも、反射的に木札を受け取った。
「なによこれ。削りかすで指が汚れるじゃない」
「二十四番の下足札。木が湿気を吸ったり乾いたりして、溝に引っかかるの。角を少し落としてあげないと、次に来た人が引き抜くときに困るでしょう」
「私は風呂屋の話をしに来たんじゃないわ」
三津子は番台の下から肉厚の湯呑みを取り出し、急須から濃い番茶をなみなみと注いだ。立ち上る湯気とともに、湯呑みを沙緒の指先のすぐ横へ滑らせる。
「指先が紫色じゃない。そんな薄着で山の上まで歩いて来るから、世界が終わったような顔になる」
「ただの体質よ。寒さなんてどうでもいい。私の精神の問題よ」
「身体が冷えていると、なんでも大袈裟に絶望したくなるのよ。いいから両手で持ちなさい」
沙緒は唇を噛み、拒みきれずに湯呑みを両手で包み込んだ。かじかんだ皮膚へ、一気に熱が染み込んでくる。沙緒は息を呑み、小さく身をすくめた。
三津子は立ち上がり、脱衣所の引き戸をガラリと開け放った。奥の湯殿からあふれた濛々たる白い湯気と硫黄の温もりが、冷え切った土間へと押し寄せる。
「それ、熱いうちに飲み干したら、お湯に浸かっておいで」
「何が浸かっておいでよ。私とそれほど歳も変わらないくせに。お湯なんかに入ったら、感覚が緩んでしまう。小説が書けなくなる」
「緩めばいいのよ。上がったら脱衣所の長椅子で横になりなさい。お腹に掛けるものならあるから」
「だから、お姉さんぶらないで。私の話を、先回りして削り落とすのは……」
「そんなことしてはいないわよ」
三津子は沙緒の手から木札を取り戻し、親指の腹でその角をそっとなぞった。
「痛くないように、角を撫でているだけ。怪我をする前に対処するのが、番台の仕事なの」
「余計なお世話よ」
「本当に余計かしらね」
三津子はふたたび平やすりを構え、木札の端を擦り始めた。
沙緒は熱い番茶を一気に喉へ流し込み、その苦さに顔をしかめた。空になった湯呑みをカウンターに置くと、息を吐き、靴を脱いだ。
脱衣所の引き戸に手をかけ、ふと立ち止まって振り返る。
「ん、どうしたの?」
三津子が声をかける。
「あの小説、ちっともパリの匂いなんてしなかったわよ」
「そう?」
「硫黄と番茶の匂いしかしなかった」
「ここで書いたものだからね。でも、あちらの山にも、温泉はあるのよ」
三津子は平やすりを動かしたまま、事もなげに言った。
「古くて静かな湯治場がいくらでも」
沙緒は何か言い返そうと唇を引き結んだが、やがて視線を落とし、小さく息を吐いた。
ガラガラと引き戸が閉まり、沙緒の細い背中が白い湯気の中へと消えていった。
静まり返った番台で、三津子は木札の角を指先で確かめ、また一定のリズムでやすりを動かし始めた。
了




