
巨大塔「ペンタ」の屋外避難階段は、いつ来ても冷たい風が吹き抜けている。
五角形の石造りの壁に背を寄せ、ここあん高校で美術科を担当する月石みづきは踊り場の鉄柵越しに霧をまとった山並みを眺めていた。眼下には、小名地区の民家の屋根が小さく広がる。その間を縫うようにして、何本もの電柱。さらに、黒い電線が空を幾重にも横切る。
階段を静かに降りてくる足音がした。大学階層の哲学科講師空野円が姿を現した。これまで、幾度か、湯呑みを手に持って外をぼんやり眺めているのを見かけたことがあったが、さすがにここでは手ぶらだった。それでも、散歩の途中のような気ままな風で、踊り場の縁を歩み寄ってくる。
「風が強いですねぇ」
空野は手すりに両手を添え、遠くの稜線を眺めた。抑揚の少ない、穏やかな声音だった。
「ええ、少し冷えますね」
月石は軽く首を傾げ、手元に抱えていた薄いスケッチブックの縁を指先でなぞった。
「さっきの美術の授業で、生徒に聞かれたの。『先生、手前の電柱が邪魔なんですが、消して描いてもいいですか』って」
「ほう。風景画かな?」
「そう。都合が悪いものを画面から追い出すのは、表現としての純化なのか、それとも単なるごまかしなのかしらね。空野先生はどう思われます?」
月石が柔らかいアルトの声で問いかけると、空野は薄く目を細めた。
「都合が悪い、というのは面白い言い方ですねぇ。電柱の側にしてみれば、人間の都合でそこに立てられたあげく、今度は絵描きの都合で存在しなかったことにされるわけですから、ずいぶんな言われようですよ」
「そうね。電柱にとってはいい迷惑かもしれないわ」
月石は小さく笑った。
「でも、絵画って昔からそういうところがある。ずるいところが。邪魔な人工物を消せば『美しい自然を抽出した』と褒められ、逆に無骨な電線をそのまま描き込めば『現代のリアルな日常を捉えた』と評価される。どちらを選んでも、後からもっともらしい理屈をつけて正当化できてしまう。都合が悪いものを消すのも残すのも、画家の勝手ひとつで決まる」
「なるほど。どちらに転んでも言い訳が立つというのは、確かにずいぶん都合がいい仕組みですね」
空野は手すりの向こう、中空を渡る風を見つめたまま言葉を継いだ。
「あるものを無いとするのも、無いものをあるとするのも、元をたどれば人が勝手に引いた境界線にすぎませんよ。禅の言葉を借りるなら、電柱そのものには最初から『美しい』も『邪魔だ』もない。ただ、そこにあるだけです。それを都合が良いとか悪いとか名づけて右往左往しているのは、いつだって見る側の心ですねぇ」
「ええ、その通りだと思うわ」
月石は空野の横顔を静かに見つめた。どこまでも平然としていて、こちらの問いかけの熱をふわりと受け流してしまう佇まいだった。
「でもね、画家がキャンバスの上でどんなに言葉を飾っても、絵そのものは嘘をつけない。電柱を消してきれいな景色に仕立てても、それがただ面倒から逃げただけのものなら、見る人には退屈な絵葉書だとすぐに見抜かれてしまう。逆に、理屈っぽく電線を描き足したところで、構図が散らかっていればただの下手な絵として片づけられるわ。言葉でどれだけ取り繕っても、画面の強度は誤魔化せないのよ」
「それは、なかなか厳しい世界ですね」
空野はふっと息を吐くように笑った。
「自分の都合で消したつもりでも、その『都合よく消してやろう』という下心が、絵の具の隙間から透けて見えてしまうわけですか」
「ええ、本当にそうなの。描き手の欲目は、消したはずの余白にこそ一番よく残ってしまうものだから」
「なるほどねぇ」
空野は納得したように一度頷き、視線を足元に向けた。踊り場の頑丈な鉄骨の継ぎ目には、太い灰色の配管が何本も無骨に留め具で固定され、外壁の美しい石組みを容赦なく分断している。
「もし月石先生が、ここからの景色を描くとしたらどうしますか。この不格好な配管も、都合が悪いものとして消してしまわれますか」
「そうね」
月石は配管と、その先に見える遠い山並みを見比べた。
「消したくなる気持ちはあるけれど、消してしまうと、この塔がどれだけ無理をしてここに建っているかが伝わらなくなってしまうもの。上手に画面の線の一部として取り込んであげるのが、一番誠実な付き合い方かしらね」
「さすがですね」
「空野先生なら?」
月石が問い返すと、空野は手すりから身体を離し、踊り場の空間をゆっくりと見渡した。
「私なら、いっそのこと配管も景色も手すりも全部描かずに、ただ白いキャンバスをそのまま提出したいですねぇ。そのほうが風通しがいいですし、余計な執着も残りませんから」
「ふふ、それは潔いけれど、高校の美術の授業でそれをやられたら単位は出せないわね。採点する私の都合が一番悪くなってしまうもの」
「おや、それは困りましたね」
空野は穏やかに目を細め、悪びれもせずに肩をすくめた。
「そろそろ戻りましょうか。次の準備を放り出してここに来ていたので」
空野が階段の昇り口へ足を向け、月石もスケッチブックを抱え直した、そのときだった。
踊り場の鉄柵のはるか下、ミニチュアのように小さく見える民家の屋根と、張り巡らされた細い電線の合間を、一羽のカラスが横切った。地上から見上げるのではなく、高い塔の上から見下ろしているため、黒い鳥の背中と広げた両翼が、灰色の景色を滑るように横切っていくのがはっきりと見えた。
月石が手すり越しに視線を落とし、小さく声を漏らす。
「あらあら、難題が増えたかしら」
「ほう?」
足を止めた空野が、手すりの隙間から眼下の空間を覗き込んだ。
「動くものまで加わると、生徒たちは余計に頭を抱えてしまうわね。電線の上に止まるならまだしも、あんな風に一瞬で横切られたら、画面に描き留めるべきか、それとも無かったことにすべきか、また新しい言い訳を用意しなくてはならなくなるもの」
月石がアルトの声で苦笑すると、空野はのんびりと瞬きをした。
「おや、何か飛んでいましたか?」
「見ていなかったの? 今、電線の真上を滑空していったじゃない」
「いえ、見えてはいましたよ」
空野は手すりに体重を預け直し、穏やかに息を吐いた。
「ただ、飛び去ってしまったのなら、もうそこには無いということです。留まりもしないものを捕まえようとするから執着が生まれるのであって、最初から見落としたことにすれば、描き手にとっても絵にとっても一番都合がいいはずですよ」
月石は虚を突かれたように目を丸くし、それからくすりと笑った。
「ずるい。その手があったのね」
「絵には負けますけれど。徹底してしまえば風通しがいいでしょう」
「ある意味では、一番潔い捨象の技術かもしれないわ」
眼下では、カラスがすでに谷あいの霧の中へと姿を消し、後にはただ無骨な電線と屋根瓦の静止した景色だけが残されていた。
「勉強になりました。最後の手段として、生徒にも教えてあげられそう」
「それは何よりです。責任はすべてカラスの羽の軽さに押しつけてしまいましょう」
空野が悪びれもせずに肩をすくめると、冷たい風の中に柔らかな笑い声が溶けていった。二人は今度こそ手すりを離れ、規則正しい足音を響かせながら、それぞれの教室へと続く階段を昇り始めた。
了
作・千早亭小倉





