【登場人物】
恋流波 陽:ここあん大学5年生(留年中)。自主映画サークル「アーヌエヌエ」所属。モラトリアムの只中にいる優柔不断な青年。
南 ちづる:23歳。元お嬢様女子大生(バツイチ)。はるの幼馴染で、はるの部屋に入り浸っている。「戯れ」を通して幼馴染との関係性を支配することを楽しむ、天真爛漫で小悪魔的な性格。
【場面設定】
はるの部屋。床には読みかけの映画雑誌やシナリオ、DVDが雑然と積まれている。ちづるがベッドに寝転がりながら、はるの本棚を漁っている。

ちづる:ねえ、はるちん。これ何? アニメの画面がいっぱい並んでるんだけど。
(ちづるがベッドから身を乗り出し、一冊の薄い文庫本をひらひらと振る)
はる:ん? ああ、それ親父のだ。「ホルス」だろ?
ちづる:あ、ほんとだ。『「ホルス」の映像表現』って書いてある。さっすが。
はる:高畑勲や宮崎駿が作ったアニメ映画の記念碑的傑作だね。
ちづる:なに、呼び捨てにしちゃって。知り合いでもないくせに。
はる:巨匠はいいんだよ、呼び捨てにして。さん付けにするほうが、知り合いみたいだろ?
ちづる:(はるの話はあまり聞いていない)へえ、あのジブリのかあ?(手にした文庫本をパラパラとめくり)これさ、中身ほぼカラーじゃん! 昔の本のくせに、めっちゃ豪華!
はる:なんだよ、「くせに」って。親父が大学のとき、自主映画撮るのに参考にでもしたんじゃないの? みんなが、ノアールだ青春だって言ってるなかで、ひとりだけ、「萌え」みたいな映画撮ってたみたいだし。
ちづる:ジブリは萌えじゃないでしょ。
はる:(はるもちづるの話を大して聞いていない)高畑勲が解説書いてるんでしょう? 演出とか構図の勉強に使ってたんじゃないかな?
ちづる:わあ!
はる:今度は何よ。
ちづる:サンビャクハチジュウエン?
(ちづるが文庫本の背表紙の一点をトントンと叩く)
ちづる:ねえ、はるちん。定価380円だって。380円だよ? 私が短い結婚生活で学んだのは、380円じゃスーパーで特売のトイレットペーパーだって買えるかどうか怪しいってことよ。ワンコインでお釣りが来ちゃうカラー本って、どういうこと? 昭和のくせにバグってない?
はる:だから、なんだよ「くせに」って。(文庫本を受け取り、奥付を見る)1983年初刷りだってさ。今から40年以上前だもん。そりゃ物価も違うさ。親父が言ってたな、大学近くのキッチンのカツカレー550円がご馳走だったって。消費税だってなかった時代だもんな。
ちづる:消費税ゼロ? パラダイスだよね。百円玉数枚握りしめて本屋に行けた時代があったんだものねぇ。で、この「ホルス」って何? 牛さんとか、園芸用具とか?(水をまくポーズを取る)
はる:主人公の名前。『太陽の王子 ホルスの大冒険』って映画の。高畑勲監督で、宮崎駿も参加してた名作アニメーション。村人たちの連帯とか、悪魔との戦いを重厚なテーマで描いた……。
ちづる:(はるの解説を遮り)いやいや、はるちん。絶対に違うね。
はる:え、何だよ。知らなかったんだろ?
ちづる:『「ホルス」の映像表現』でしょ? ホルモン焼きとかの「シズル感」をいかに映像として美しく表現するかを追求した、画期的なグルメ本だよ。
はる:さっき、中身見てたじゃん。いいかげん牛さんから離れなよ。ホルスは太陽の神様からついた名前じゃなかったかな。
ちづる:てへ。でも面白くない? 勇者が金串持って、ホルモンを串刺しにするわけよ。網の上で脂がジュージュー跳ねるあの情熱! 滴る肉汁の照り! それを全編カラーで徹底解剖した、380円の奇跡の教本! おじさんたちって、絶対そういうの好きじゃん。
はる:(心底あきれて)ちづるのほうが昭和だよ。それに、その本が出たころは、おやじはおじさんじゃなかったしな。
ちづる:この前、NHKでこの頃の早稲田のドキュメンタリーやってたけど、早稲田の学生たち、みんなおじさんだったよ。
はる:ほんと失礼な、お前って。
ちづる:もう一度言って。
はる:え、何? ほんと失礼なやつ。
ちづる:違う、「おまえ」って。
はる:何がやりたいんだよ。可愛いからって何言っても許されるわけじゃないんだよ? 面白くないものは面白くないからね。
ちづる:(「可愛い」と言われた部分にだけ反応)はるちん、相変わらず厳しい。正義の人、はるちん!
(ちづるがはるから文庫本を奪い返し、少しだけ真面目な顔をして、本を胸に抱き寄せる)
ちづる:はるちんのお父さん、この380円の本を何度も何度も読んで、映画撮ってたんだね。
はる:その本だけじゃないだろ?
ちづる:(はるの言葉は無視して)そう考えると、なんだかちょっとエモいっていうか。お父さんの「青春の値段」って感じがする。
はる:え、安くない? カツカレーより安い青春って。
ちづる:ねえ、はるちん。
(ちづるがはるの顔のすぐ近くまで顔を寄せる)
ちづる:はるちんの「青春」は、今いくら? 私が百円玉4枚出したら、買えちゃう?
はる:(ドギマギして後ずさりしながら)か、買えるわけないだろ! 俺の青春はワンコイン弁当じゃないし、いくらって、いくらって……そもそも売り物じゃない!
ちづる:あはは、冗談だよ、冗談。はるちんはもう映画撮らないの?
はる:もう5年だしね。今年で大学も映画も卒業。
ちづる:卒業しても撮ればいいじゃん。そのときは、私が「酸いも甘いも知った、出戻り女の映像表現」、たっぷり教えてあげるからね。
はる:出戻り女とか自分で言うなよ。
ちづる:自分で言うのはいいの。でね、ギャラは……そうね、新商品のフラペチーノでいいよ。ね、ねえ、今度デートしようよ、久しぶりに。
はる:デートなんてしたことないだろ。
ちづる:ほら、ひじりん(聖林太郎)も呼んで。
はる:ほら、デートじゃないじゃん。
ちづる:やりたいの、また、『冒険王』ごっこ。
はる:それ、『冒険者たち』な。いいかげん覚えろよ。
ちづる:この本の字、見てたら、思い出しちゃった。
(なんかわーわー、うるさく会話が続く)
(幕)
作・千早亭小倉
![[公式]千早亭小倉の世界 | ここあん村案内所](https://atelier-cocoan.com/wp-content/uploads/2026/04/20260410_125128.jpg)



