地層3。深海魚が氷山の懐で、のんきに泳いでいたころの一幕。
【登場人物】
氷上 静:ここあん大学哲学科講師。理性の信奉者。自分の内なる激情を恐れ、常に論理と定義の鎧で武装している。
恋流波 陽(ハル):ここあん大学の学生。静の孤独な思考の海に潜り込む深海魚。冷たい女性の心を溶かすことに挑むロマンチスト。
【場面設定】
氷上静の自宅、書斎。晩秋。静はデスクで本を読み、ハルはソファに座っている。

恋流波陽:静さん。ちょっと窓の外を見てください。
氷上静:(本から顔を上げずに)ショーペンハウアーの「意思の否定」への考察よりも価値があることかしら。
陽:いいから、ほら、あそこです。
(陽が立ち上がり、静の背後に回る。静の肩越しに窓を指差す。二人の顔が接近する)
静:(やや顔がこわばっている)
陽:雪虫です。白い綿をまとって、冬の妖精が舞っているみたいですよね。
(陽が窓を開ける)
静:(立ち上がり、距離を取って本棚へ向かう)「妖精」など存在しない。あれはトドノネオオワタムシ。アブラムシ科の昆虫よ。
陽:またそうやって雰囲気を壊すんだから。もっと素直に綺麗だ、ハルってロマンチストねって思えばいいのに。
静:(書棚から分厚い原書の図鑑を引き抜き、ページをめくる)安易な感傷に浸るのは知性の怠慢よ。Sie fliegen von der Sachalin-Tanne zur Mandschurischen Esche.(少し早口で)なるほど、あれはヤチダモの木からトドマツの木へ移住するために飛行しているの。これは単なる生存戦略の目撃よ。
陽:逃げましたね。僕が近づいたから?
静:(図鑑を開いたまま、冷淡に)あれは単為生殖で爆発的に増殖したクローンの集団よ。
陽:(静の言葉に少し関心を示して)クローン?
静:衣服に付着したものを誤って潰すと、シミになるわよ。今、あなたの左肩に三匹止まっているけれど、その服、高いんじゃない?
陽:(悲鳴を上げて飛び退く。肩には何も付いていない)あれ?
静:あなた、先週も「静さん、青い鳥が木に止まっていますよ」って。自分で言ったことを忘れたの? 「防衛線」は進化するのよ。
陽:(スマホで何か調べてる)えっと、静さん。さっき、ヤチダモからトドマツへって言いましたよね。
静:ええ、多分。そうね、言ったわ。
陽:それは6月頃で、いま見えているたくさんの雪虫は、トドマツの根で増えた世代が、ヤチダモの木へ移動しているものだそうです。季節が逆です。静さん、あわてましたね?
静:……。
陽:ハルは、物覚えがいいのねとか。ご褒美は……。
静:(ハルの言葉を遮って)防衛線は使命を果たしたからいいのよ。
陽:負け惜しみ。
静:結果の報告よ。ハルは早く自分の席へ戻りなさい。お茶、飲むでしょう?
陽:わーい。
(幕)
作・千早亭小倉




