掌編小説「二つ目の落語家と代弾きピアニストの恋」|地層3「月」三部作(3)

地層3を構成する、主要三部作の第3作。長尺あらすじでご紹介します。

登場人物
完璧な正解を求める「代弾き」のピアニスト・ひな
糠森ひな|箱庭ここあん村の住人紹介
氏名:糠森ひな(ぬかもり ひな)年齢・性別:30代半ば・女性肩書:代弾きピアニストを経て、現在はフリーランス・ソリストピアニスト オーケストラの中で育まれた、孤高の鍵盤の詩人怜悧で凛とした佇まいを持つピアニスト。完璧な技巧を誇る一方で、かつ…
欠点だらけの「二つ目」落語家・馬楼
酔酔亭馬楼|箱庭ここあん村の住人紹介
氏名:酔酔亭馬楼閣(すいすいてい ばろう)※本名:小林 道照(こばやし みちてる)/「どうしょう」はあだ名。年齢・性別:34歳・男性肩書:長野の禅寺の副住職、元・真打の落語家高座の挫折から安らぎへと至った、心に寄り添う赤袈裟の求道者熟れすぎ…

図書館の片隅で、誰に借りられることもなく、忘れ去られた本。
その中のひとつの頁にのこる、栞ひもの跡。
これは、そんな誰にも知られず過ぎ去った、
だけどそこに確かにあった、ささやかな男女の淡い物語。

最悪の出会いと、奇妙な共鳴

お題01 ピアノ講師の米山共子から「落語で大笑い、ですって」と差し出されたホール寄席のチケット。弟子の糠森ひなは、自分に欠けた人間味を補えと言わんばかりの師の意図を察しつつも断れず、代理で区民会館へ足を運ぶ羽目になる。コンクールで飛び抜けた結果を出せず、「及第点のきゅうちゃん」と共子に呼ばれるたび、技術の先にある魂を掴めない現実を突きつけられてきた。落語の知識など皆無で、チケットに並ぶ「酔酔亭一門」や「なまくら」という名にも心当たりはない。どんよりと垂れ込める雨雲のような憂鬱を抱えながら、ひなは気の進まぬまま会場へ向かう。

お題02 クラシックの静謐さとは対照的な、熱気渦巻くホール寄席の客席で、ひなは落ち着かない時間を過ごしていた。前座に続いて舞台に現れたのは、真っ赤な羽織を着た酔酔亭馬楼。客席からは「あいつにゃ無理だ」「今日も噛むかな」と声が漏れ、期待半分、冷やかし半分の張り詰めた空気が漂う。その高座はお世辞にも上手とは言えず、たどたどしい語りが続く。しかし魚屋の勝五郎が財布を前にする山場で、馬楼は震える声で「よ、よそう。また夢りなるといけねぇ」と言い放った。客席が噛み損ないに沸く中、その言葉がひなの心臓を大きく打ち鳴らす。

お題03  客席の冷やかしをよそに、ひなの脳裏には遠い日の記憶が蘇っていた。幼い頃、ピアノのコンクールで初入賞を果たした夜、普段は飲まない父が珍しく赤ら顔で酒杯を置き、「夢になるといけねぇ」と呟いたのだ。数年後に早逝した父の笑顔と温もりが胸を衝き、ひなの目から熱い涙がこぼれ落ちる。お世辞にも巧いとは言えない高座だったが、馬楼の放った一言だけは深く心に刺さっていた。隣の客から演目の名が「芝浜」だと教わったひなは、その名を頭に刻み込む。義理で聴いた共子の知人・なまくらの落語も、胸を去来する父の面影にかき消されていた。

お題04  生まれ育った東京都ここあん村のスタジオで、ひなは声楽家に稽古をつけるコレペティの代役を務めていた。求められるのは一音の狂いもない正確無比なタッチ。主役の引き立て役に徹する「代弾き」の仕事に誇りは持っているものの、心の奥底で疼く痛みを拭えない。「私の音楽って、結局なんなんだろうなぁ」と漏らした呟きは、譜面をめくる音に掻き消された。旧友たちからは指先ひとつで優雅に暮らしていると羨まれるが、及第点止まりの自分に足りないものは何か、答えは見つからない。誰かの影武者であり続ける日々に、小さな棘が刺さったままだった。

お題05  気晴らしに立ち寄った路地裏のコンビニで、ひなは赤いオーバーオールを着た店員を目にして息をのむ。ホール寄席で「芝浜」を演じていた馬楼その人だった。運命の再会と思いきや、彼はあくび混じりに商品を放り込み、奇妙な形のシュークリームを無惨に押し潰す。「食べ物なんですけど!」とひなが怒声を上げると、投げやりに渡された釣り銭が散らばり、拾おうとした指先同士に静電気が走った。さらに馬楼は電話口で「同じケイコならスナック『けい子』だろう!」と下卑た声を張り上げる。仕事への敬意など微塵もない男の態度に、ひなの怒りは沸点に達した。

お題06  自室に戻ったひなは、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を前に立ち尽くす。指は正確に動くのに、冷たいガラスの壁に遮られたように音が心に響かない。地域の合唱サークルでマダムたちに褒められようと、舞台の主役になれぬ代弾きとしての渇きは癒えなかった。防音室を打つ雨音を遮断し、ソファに倒れ込んだひなは、買い求めた無惨に潰れたシュークリームを口へ運ぶ。予想外の濃厚な甘みが広がる中、脳裏をかすめたのはあの不真面目な男の姿だ。稽古を放り出すような男が、なぜあの「芝浜」を語れたのか。苦い疑問が、雨の夜の静寂に溶けていった。

度重なる偶然と、似た者同士の魂

お題07  路地裏の隠れ家カフェ「小古庵」で、ひなはここあん大学の哲学講師である氷上静と向かい合っていた。感情を込めれば米山共子から「大袈裟ね」と窘められ、進むべき方角を見失った苦悩を吐き出す。「もう、どっちに進んだらいいのか、完全に迷子なんですよ」と項垂れるひなに、静は優雅に珈琲カップを戻して微笑む。「迷子になるって、そんなに悪いことばかりじゃないと思うのよ。迷っている時も、あなたはちゃんと自分の足で前に進んでいるのよ」。知的な友の包容力ある言葉が、頑なに強張っていたひなの心を、乾いた大地に染み込む水のように潤していった。

お題08  「小古庵」の平穏は、凄まじい轟音によって破られた。窓の外で電柱に自転車ごと激突したのは、またしても赤い服を着た馬楼だった。額を血で染めながら入店するや、店主の神崎志乃に「とりあえず生! なまくらじゃないほうの生」とくだを巻き、師匠から肩の力を抜けと言われて自分の才能に見切りをつけられたのかと愚痴をこぼす。その破天荒な姿に、隣の静は「物語の登場人物みたい」と面白がる。ランチ時の酒を断られ、昼酒を求めて店を出ようとした馬楼だったが、固まるひなの前でふと足を止め、「もしかしたらもしかしてなんだけどさ」と呼び止めた。

お題09  「ホール寄席、来てくれた?」と馬楼はひなに身を乗り出した。なまくらが自慢していたピアノ講師の美人の弟子が来るという話を思い出し、入店時から自分を凝視していた顔に見覚えがあったのだという。動揺したひなが「全然、気にしてませんから!」と要領を得ない返答を口走ると、馬楼は「俺、なんか気に障ること言いました⁉」と食ってかかる。緊迫した空気を割ったのは静の「今日は、そのへんにしておきましょうか」という一言だった。気圧された馬楼が店を飛び出した後、志乃ママは「不器用なだけだから」と悪戯っぽく彼を庇うのだった。

お題10  米山共子の教室帰り、ひなは居酒屋「ここきた」に立ち寄る。愛子ママの筑前煮を目当てにしながら、亡き父の面影と指導の行き詰まりから初めて日本酒を口にし、完全に泥酔してしまう。千鳥足で吸い寄せられたのは、馬楼が夜勤に入る例のコンビニだった。普段の冷静さは消え失せ、「シュークリームをぐっしゃぐしゃにする名人!」「例の、お酒になるといけねぇってやつやって!」とカウンターでくだを巻く。同僚のアルバートが呆れる中、「笑わせなさいよ!」と迫るひなの孤独を見抜いた馬楼は、腹を括って即興の小噺を一席披露してみせる。

お題11 馬楼が放った渾身のダジャレ小噺に、ひなは「全然面白くないのに、逆にめちゃくちゃ面白い!」と涙を流して大爆笑する。しかし次の刹那、配電盤のヒューズが飛んだように笑顔を消すと、「このっ、能無し!」と豹変して殴りかかった。間一髪で同僚のアルバートが割り込む中、「ド下手! 穀潰し! 二度と私の前に間抜け面を見せないで!」と容赦ない罵声を浴びせる。理不尽極まりない言葉に傷つきながらも、荒れ狂うひなの瞳の奥に自分と同じ焦燥と孤独を見た馬楼は、なぜか彼女を憎みきれず、放っておけない脆さを感じていた。

お題12 心身ともに擦り切れて夜勤を終えた馬楼の携帯に、師匠の酔酔亭なまくらから電話が入る。いつもの呑気な調子とは一変した低い声が鼓膜を刺した。「問題にしてるのは、落語家としての、人としての覚悟だ。このままじゃ本気で破門にしなくちゃなんねぇ」。数日前に商店街の旦那衆が催してくれた「ここあん湯寄席」に大遅刻し、泥酔したまま高座で前代未聞の大失態を晒したのだ。学生時代に百年に一人の逸材と持て囃された栄光は跡形もない。厳しい叱責に打ちのめされた馬楼は、冷たい雨に打たれる捨て猫のように肩を丸め、朝酒を求めてふらふらと歩き出した。

お題13 コンビニを飛び出したひなは、近くの公園のベンチで夜空の月に顔を向けていた。鍵盤を叩くための繊細な指が無事であることに安堵したのも束の間、自らがしでかしたご乱行の記憶がじわじわと蘇る。「ものすごく酷いことを言っちゃった気がする。最低なのは私だ」。あれほど胸を衝かれた落語のサゲを求めて訪ねたはずなのに、なぜ面罵してしまったのか。不器用にもがきながら生きる男の姿に、自分と同じ葛藤や満たされない孤独を重ね、湧き上がってきた複雑な感情を持て余していた。火照った頬を撫でる夜風の中で、ひなは深い自己嫌悪に沈んでいく。

お題14 泥酔の失態を深く反省したひなは禁酒を誓う。それでも馬楼の語りを確かめたい衝動は抑えがたく、酔酔亭の一門会「朝から晩まで、す、す、酔いっと酔酔亭」の木戸をくぐっていた。看板の馬太郎目当ての客で超満員の客席。やがて高座に現れた馬楼は、マクラでコンビニに現れた凶暴な女の珍事を披露し、客席を大爆笑の渦に巻き込む。赤面して縮こまるひなをよそに本編が始まるが、肝心な箇所で噛んでは間を外す悪癖は相変わらずで、客席の熱気は急速に冷めていく。それでもひなは、初めて聴いた時とは全く違う真剣な眼差しで、その不格好な熱演を見つめていた。

お題15 馬楼が演じたのは古典落語の「もう、半分」だった。居酒屋に現れては枡に半分だけ酒を注がせる飲兵衛の噺である。若々しく響くテノール声は相変わらず人情の機微を捉えきれず、話の粗が際立っていた。しかし、主人公が杯をくいっと傾け、身体に酒が回っていく一連の所作に入ると、客席の空気が一変する。数々の酒場で出禁を食らってきた馬楼だからこそ宿る、奇妙な生々しさと幸福感。その仕草の端々に、ひなは幼き日に見た亡き父の姿を重ねていた。技術の稚拙さを超えて胸に迫る何かが、確かにその高座には息づいていたのだ。

お題16 仲入りを挟み、再び高座に上がった馬楼が「勝五郎」の名を口にした途端、ひなは心の中で強く拳を握りしめた。待ち望んでいた「芝浜」だ。物語が佳境を迎え、運命の台詞が訪れる。「よそう。また夢になりゅといけねぇ」。客席に溜息が漏れる盛大な噛みっぷりだったが、ひなには些末な傷に過ぎなかった。勝五郎の戒めと、我が子の入賞を喜んだ父の祈り。二つの言葉の重なりが胸に押し寄せ、熱い涙が頬を止めどなく伝っていく。稚拙でありながらも父との絆を鮮やかによみがえらせてくれた高座に、ひなは溢れ出る涙を拭うことさえ忘れていた。

お題17 冷え切った高座を終えた舞台袖では、若手たちが「噛めば馬楼兄さんの五段活用」と口々に嘲笑していた。そこへ「ずいぶんと勉強熱心なことだねえ」と低い声を浴びせたのは、兄弟子を追い抜いて真打となった若き看板・酔酔亭馬太郎だ。笑わぬ双眸に場が凍りつく中、今度は引退同然で老舗和菓子屋を継いだ巨体の兄弟子・酔酔亭馬久夢がのっそりと現れる。特製の「南米風チリ最中」を手にした馬久夢の無言の圧力に若手たちが縮み上がる中、当の馬楼が「ああ、暑いねまったく」と汗を拭いながら、事態も弁えずに能天気な顔で戻ってきた。

お題18 「今さ、新作落語こさえようとしてんだけど、相談に乗ってくれねえか」と呑気に持ちかける馬楼に、馬太郎の表情が険しくなる。「やるんなら半端はなしですよ。新作を舐めてもらっちゃ困りますから」。古典派を気取っていた兄弟子の甘えを冷徹に突き放され、馬楼は両手を合わせて退散するしかなかった。逃げ込んだ奥の楽屋では、師匠のなまくらが呑気に茶をすすり「落語は楽なのが一番だからねぇ」と呟く。だが、先日の電話での怒気とは正反対の掴みどころのない態度こそ、弟子を見限った証ではないか。馬楼は小さく縮こまり、ただ頭を下げ続けた。

お題19 カフェ「小古庵」の穏やかな光の中で、ひなは氷上静に近況を打ち明けていた。「すっかり馬鹿野郎さんの落語ファンね」と微笑む静に、「馬楼です」と苦笑しつつ、彼が演じる酒を飲む仕草や「芝浜」のサゲに触れるたび、どうしても亡き父の面影が重なってしまうのだと告白する。「わたし、ファザコンだったのかな」。自嘲気味に呟くひなを、静は優しく受け止めた。「人はね、もう会えない大切な人の面影を、目の前の誰かに重ねてしまうことがあるのよ」。静がドイツ語で呟いた想起と憧憬の言葉が、ひなの強張った心を柔らかく解きほぐしていった。

お題20 ひなはピアノの前で、米山共子と共にラフマニノフのピアノ協奏曲第2番と対峙していた。「心が足りない」と評され、感情を乗せれば「大袈裟」、抑えれば「魂が泣いてる」と揺さぶられる日々。代弾きとして自分を消す日々に迷いながらも、幼き日の純粋な歓びを思い出して弾ききった。今度こそと反応を待つひなに、共子は思わぬ一言を放つ。「今日のは、なんだかお味噌汁みたいな味がしたわね」。困惑する弟子を置き去りに、共子は落語家が継いだ店の最中でお茶にしようと微笑む。掴みどころのない師の真意は、深い霧の向こうに隠されたままだった。

お題21 米山共子の不可解な評価に迷うひなへ、氷上静が思いがけない提案を持ちかける。芸術家たちが集うアパート「音巴里荘」への転居だった。防音の離れには調律の行き届いたグランドピアノが常設されており、環境を変えて新たな刺激を受けることが、殻を破る契機になると静は説く。実家を出て自立した暮らしを送ることは願ってもない好機に思えた。しかし、場所を移したからといって、探しあぐねている「自分だけの音楽」が都合よく見つかるものだろうか。魅力的な条件を前にしながらも、拭いきれぬ不安がひなの背中を引き留めていた。

お題22 居酒屋「あちこち」のカウンターでは、大将のまっちゃんが鬼の形相でグラスを磨いていた。情けをかけて入店させた馬楼が泥酔して客に絡み、新たな出禁騒動を起こしたのだ。「出ていくのが禁止なら、入るのはオッケーっすよね!」と屁理屈をこねたという顛末に、常連の大学講師・徒然士は「高座より普段の生き様の方がよっぽど落語だ」と腹を抱えて笑い転げる。怒りを爆発させつつも、まっちゃんは「呑みすぎなんだよ。冗談抜きで体が心配だ」と本音を漏らした。どれほど呆れ果てても、誰もがこの不器用な男を完全には見捨てられずにいた。

お題23 数日後、大学前駅でひなと馬楼は真正面から鉢合わせた。コンビニでの一件以来の遭遇に、馬楼は「何十台も並べて弾くお仕事ですか」とからかい、代弾きを「代引き」と混同して宅配便の一人芝居を始めてしまう。駅前で通行人の注目を浴び、「下手くそな芝居、一生やっててください」と吐き捨て立ち去ろうとしたひなだったが、電車の時間を思い出し、すました顔で引き返した。憤慨しつつも、かつてのような嫌悪感ばかりではない。奇妙な調子狂いの男に巻き込まれながら、ひなは自分の感情が大きく揺さぶられていることに困惑していた。

お題24 取り残された馬楼に声をかけたのは、行きつけのバー「海」の海ママだった。代弾きの実態を知らない馬楼へ、ママは専門的な解説を始める。それは本番の華やかなステージに立つソリストを支える影武者であり、誰よりも高い技術と柔軟性が求められる過酷な仕事なのだと。「リハーサルでどんなに感動させても、本番の舞台には立てない悔しさ、馬楼さんに分かる?」という言葉に、馬楼は神妙な面持ちで深々と頭を下げた。澄ました顔の裏で孤独な葛藤を抱えながら鍵盤に向かい続けるひなの姿が、初めて馬楼の胸に深く刻み込まれた。

お題25 大型CDショップの奥まった一角で、ひなはクラシックの棚から一枚を選び取ろうとしていた。そのすぐ隣、ジャズの棚へふらりと現れたのは、またしても赤いオーバーオール姿の馬楼だった。「代弾きのお姉さん!」と屈託なく声をかけてきた彼に、ひなも「また会いましたね」と自然に言葉を返す。馬楼は手にしたマイルス・デイヴィスのレコードを誇らしげに掲げ、「ジャズは最高だよ、なんてったって自由だからね!」と相好を崩した。いつものお調子者とは違う、音楽への純粋な敬意を宿した横顔に、ひなは思わず見入っていた。

お題26 音巴里荘への引っ越し当日、作業員の中に赤い服の馬楼が混ざっていた。「発破かけ要員!」と汗を拭う姿に、ひなの母は面白がって目を細める。ピアノを運ばないのかと無遠慮に問われ、「音巴里荘にも良いグランドピアノがあるんです!」とひなは思わず声を荒らげた。「ひなちゃんに怒られちゃいました」とおどける馬楼と、娘が男性にムキになる姿を初めて見たと笑う母。男性相手に感情を剥き出しにしたことなどなかったひなは、己の動揺に赤面する。掴みどころのない男の存在が、閉ざされていたひなの感情の扉を少しずつ押し開けていた。

お題27 音巴里荘での生活は、規格外の洗礼とともに幕を開けた。大家の阿斗理恵に連れられた館内には、一癖も二癖もある住人たちがひしめいていた。派手に怒鳴り散らす女優の赤井葵、音程の狂いに神経を尖らせる音楽家の五郎寺圭音、平凡を嫌い異様な肖像画を迫る画家の額フチ子。さらに「削ったろか」と木槌を構える彫刻家の能美カンナ、絶望顔を狙う写真家の銀板次郎、魂で打てと怒声を浴びせる書道家の硯毛八。強烈な個性の嵐に圧倒され、ひなは立ち尽くす。自らの殻を突き破るための、奇妙で騒々しい日々がこうして始まった。

公園での約束と、覚醒する才能

お題28 ここあん村立図書館で、ひなは子供たちへ向けたピアノのボランティア演奏に臨んだ。評価や技術の呪縛から離れ、純粋に音を楽しんでほしいと祈るように鍵盤を叩く。演奏を終えると、子供たちが瞳を輝かせて駆け寄ってきた。誰かの心に確かに音が届いた温もりを抱きしめて館外へ出ると、そこに馬楼の姿があった。「お姉さんに話したいこ――」と珍しく真顔で口を開きかけた瞬間、子供たちの歓声に遮られ、彼は紙芝居役として館内へ連行されてしまう。後に残されたひなは、伝えられなかった言葉の意味を測りかねて立ち尽くした。

お題29 その夜、居酒屋「あちこち」のカウンターで、馬楼は焼酎のお湯割りを煽りながら、ひなとの度重なる遭遇をまっちゃんにまくし立てていた。「高座に上がってるときでさえ、客席にひながいないか探しちまうんだ」と語る馬楼に、大将は「それは惚れてるって白状してるようなもんだ」と笑い飛ばす。「可愛いのか?」と問われ、馬楼の脳裏にひなの面影が鮮やかに立ち上がる。吸い込まれそうな瞳、若武者のように凛とした黒髪、夕暮れに赤く染まったうなじ。胸の奥で鐘が鳴るような衝動を覚え、馬楼は己の恋心を誤魔化す術を失っていた。

お題30 図書館前で取り残された後、馬楼は走り去ったひなを追って公園のベンチへ辿り着いていた。並んでお茶を口にしながら、馬楼は「ひなさんと話していると、エンジンがかかる」と訥々と語る。街中で無意識に姿を探してしまうという率直な吐露に、ひなは胸を高鳴らせ、動揺を隠すように自らの音楽の苦悩を語り出した。しかし時計の針が進んでいることに気づくと、未開封のペットボトルを馬楼の手へ押しつけ、慌てて駆け出してしまう。「明日、ここで練習してますから!」と叫ぶ馬楼の声を背に受けながら、ひなは何度も頭を下げていた。

お題31 夕暮れの公園で缶ビールを開け、ひなと馬楼は前日の続きを語り合っていた。代弾きの葛藤を打ち明けたひなに、馬楼は「海」のママから聞いた知識を交えて熱心に寄り添う。しかし、師匠の米山共子に振り回され「自分の音楽なんて本当はないのかも」とうつむくひなへ、馬楼は容赦なく核心を突いた。「本当は『代弾きじゃ嫌だ! 自分の名前で弾きたい! 先生の言うことなんか知るか!』って思ってるんじゃないすか?」。痛いところを衝かれて顔を真っ赤にするひなに、馬楼は「顔に書いてあるもん」と笑い飛ばす。優等生の仮面を剥がされ、ひなは憤慨しながらも救われていた。

お題32 「俺だって悔しいよ」と、馬楼もまた缶を握りしめて本音を吐露した。落研で持て囃された過去と裏腹に、プロの壁にぶつかり、師匠のなまくらの真意も測れずにいる。「でも、お客さんが腹抱えて笑って、最後はホロッと泣ける落語をやりたい。『芝浜』最高でしょう?」。真剣な横顔に触れ、ひなは相手の内に自分と同じ渇望を見る。互いに名前で呼び合う距離感の中、馬楼は「今度さ、俺の落語、聞きに来てよ。俺もひなさんのリサイタル聞きに行くから」と告げた。密かに高座へ通っていたひなは動揺しつつ、缶をカチンと合わせる。表現への執念を分かち合い、二人は確かな同志となった。

お題33 公園の夜を経て、二人の間には言葉にしがたい親密な絆が結ばれていた。恋人とも単なる友人とも違う、互いの孤独の深さを知り尽くした表現者同士の共鳴だった。完璧を求められる代弾きとして自分を抑え込んできたひなにとって、無様に泥を啜りながらも理想を追い続ける馬楼の姿は、心に眠る熱情を呼び覚ます灯火となる。馬楼にとっても、ひなの正確無比な旋律の奥に潜む叫びが、己の芸を奮い立たせる刺激となっていた。ぶつかり合い、不器用に晒け出し合ったからこそ、二人は相手の高座や演奏の中に、誰よりも早く宿り始めた魂の息遣いを感じ取っていた。

お題34 居酒屋「ここきた」の暖簾をくぐったひなは、唯一空いていた席に腰を下ろした。隣では熱燗を煽り、赤ら顔になった馬楼が目を丸くしている。愛子ママに酒ではなく茶を頼んだひなの前へ、名物の筑前煮が運ばれた。美味しそうに頬張るひなの素朴な横顔に、馬楼は不意に見惚れてしまう。「あ、俺にもそれちょうだい!」と慌てて同じ皿を注文した彼に、ひなは「子どもが甘えるみたいですね」と悪戯っぽく笑った。「うるせぇな!」と照れ隠しに野菜を口へ放り込む馬楼。かつての刺々しさは消え、カウンターの片隅には思春期のような初々しい温もりが静かに満ちていた。

お題35 ある日、二人は村営の美術館を訪れた。黒のワンピースを纏ったひなと、いつもの赤いオーバーオールの馬楼。ちぐはぐな装いながら、二人の空気はどこか寄り添っていた。退屈そうにあくびを噛み殺す馬楼は、実家の寺の和尚だった父がクリスマスの靴下にパキッテを入れてきた恨み言を並べ、「絵画には恨みしかない」とぼやいてみせる。苦笑しながら耳を傾けていたひなだったが、急に立ち止まった馬楼の背中にぶつかった。あちこちに視線を散らしていた男が、ある一枚の油絵の前で金縛りに遭ったように立ち尽くし、食い入るように瞳を凝らしていたのだ。

お題36 馬楼の足を止めたのは、野良着姿で夕日に汗を光らせる日本人女性を描いた明治の油絵だった。力強く土の匂いを漂わせるその佇まいに魂を奪われたように見入る馬楼は、「『芝浜』に出てくるおかみさんってさ、もしかしたら、こんな顔してたのかなぁ」と静かにつぶやいた。普段の軽薄さを脱ぎ捨てた真摯な横顔を、ひなは息をひそめて見守る。芝浜のおかみさんには固有の名がない。それは勝五郎を立てるためであると同時に、聴き手それぞれが胸に思い描く情愛の形を託すためではないか。名画の前で芸の核心に手を伸ばす男の横で、ひなは物語の持つ深遠さに思いを巡らせていた。

お題37 その日を境に、馬楼の高座には目に見えて確かな変化が兆し始めた。相変わらず噛み癖や間の悪さは顔を覗かせるものの、台詞の端々に息遣いが宿り、ただのなぞりではない登場人物の血肉が通い出したのだ。何より、勝五郎を支えるおかみさんの描写に、これまで欠けていた情の深さと温もりが滲み出ている。稽古場でその異変を敏直に感じ取った師匠の酔酔亭なまくらは、目を細めて煙管を置き、「お前、最近いいことでもあったかい? ちょっと芸が変わったか」と煙を吐き出した。馬楼は「へへ、まあ、ちょっと」と頭を掻き、照れ隠しの笑みで言葉を濁した。

お題38 馬楼が芸の道で小さな光を掴みかけていた頃、ひなのもとにも区民会館の小ホールで開く自主リサイタルの話が舞い込んだ。準備を進める中、ひなは思い切って馬楼へ一枚のチケットを差し出す。「無理して来ていただかなくても、全然いいですから」と保険をかけるように口ごもるひなの手から、馬楼はニッと笑って券をもぎ取った。「水くせぇなぁ! 本当は俺に聞いてほしいんだろ? 分かってるって!」。その屈託のない笑顔とからかいに、ひなは口元を尖らせつつも、胸の奥を満たす純粋な嬉しさを隠せなかった。誰よりも自分の音を届けたい相手が、確かに定まっていた。

お題39 リサイタル当日、格式高いホールの右端席に、真っ赤な羽織を着た馬楼の姿があった。周囲の失笑をよそに、その存在はひなに迷いを断つ勇気を与える。米山共子に頼ることなく自らの足で歩み出たひなは、ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」終曲「キエフの大門」を奏で始めた。荘厳な響きがホールを震わせ、馬楼の胸に故郷の銀世界と厳しい冬の情景を呼び覚ます。やがて猛吹雪を抜けて春の訪れを告げる祝祭の鐘のように音が解き放たれると、馬楼は圧倒されて息を呑んだ。万雷の拍手の中、彼は立ち上がることもできず、心の中で「お前、すげぇよ、ひな」と呟いていた。

お題40 楽屋に駆け込んできた馬楼は「今日のピアノ、めちゃくちゃ良かった! すげぇ心に響いた!」と上気した顔で絶賛した。ひなは目頭を熱くし、「馬楼さんのおかげかも」と微笑み返す。直後に現れた師匠の米山共子は「エネルギーには満ちていたけれど、感情のコントロールが効いていないわね」と容赦ない課題を突きつけてきた。しかし、以前ならひなを激しく動揺させたはずの師の苦言も、いまは不思議と胸を苛まない。技術のその先にある魂を誰かに届ける歓びを知ったひなにとって、目の前で興奮冷めやらぬ男がくれた率直な賛辞こそが、何よりの揺るぎない確信だった。

お題41 リサイタルの興奮冷めやらぬ帰り道、二人は夜空に浮かぶ満月を見上げていた。スマホを構えたひなが「どうして写真に撮ると、こんなにちっちゃくなっちゃうんだろう」と零すと、馬楼は得意げに笑う。「月ってのはね、この自分の目で、心で直接見るのが一番なんですよ」。そう語りかける馬楼の顔が、息がかかるほど間近に迫っていた。「あ、アップすぎるって」と呟いた拍子に、互いの呼吸が触れ合う。大きな瞳に宿る月の揺らぎに、馬楼の胸が跳ねた。赤い羽織と黒のワンピースの影が寄り添い、二人はいつまでも冴えわたる光を浴びていた。

お題42 居酒屋「あちこち」のカウンターで、ひなはまたしても泥酔していた。「これこれしかじか」と宥める馬楼に、「鹿が関係あるわけ? メェェェ」と羊の鳴き真似で絡む。見かねた馬楼がツケを残して連れ出し、夜風の吹く公園のベンチへ辿り着いた。「面白い話してよ」とせがまれ、馬楼は知ったかぶりを笑い飛ばす滑稽噺「転失気」を語り始める。医者と和尚のちぐはぐな問答で元気づけようとしたが、熱演のさなか、ひなは安らかな寝息を立てていた。頬に光る一筋の涙を見つめながら、馬楼は子どものように無防備な横顔を優しく見守り続けた。

お題43 仕事で痛恨のミスタッチを犯したひなは、深夜のコンビニへ駆け込み、レジカウンターにおでこを押し当てた。「もう、やだ。今日、最悪だった」。自責の念に押し潰されそうなひなを慰めようと、馬楼は「俺はここあん村のミスタッチ代表だからね」と自らの赤字自慢を繰り出す。しかし「いつの時代の話ですか」と冷たくあしらわれてしまう。「いつまでも飾られてないで、こっち見なって」。不器用に向けられた温かい呼びかけに、ひなはレジ横のチョコレート菓子を差し出した。「これ、ちょうだい。桁を間違えないでくださいよね」。頑なな心が少しだけ解けていた。

お題44 いつもの公園のベンチで、張り詰めた糸が切れたようにひなは泣き崩れた。「私、もうダメかもしれない。才能なんてなかったんだ」。差し出された手ぬぐいに顔を埋めるひなは、躊躇する馬楼の手を引き寄せて自分の肩へ回し、その胸に縋りつく。「俺の落語だって、まだまだ全然だ。もう少しだけ、一緒にあがいてみないか」。「あがくって、もっと気の利いたこと言えないの」。呆れ混じりに漏らしたひなだったが、唇には微かな笑みが浮かんでいた。「馬楼さんのそういう不器用なとこ、嫌いじゃない」。冷たい夜風の中、二人は互いの体温を分け合っていた。

お題45 心のままに弾く歓びを思い出したひなに対し、米山共子は「感情が先走りすぎてないこと?」と演奏の危うさを指摘する。しかし音を解き放つ喜びに浸るひなの耳には届かない。一方の馬楼も、美術館で芝浜のおかみさんの面影に触れて掴みかけた光を定着させられず、師匠の酔酔亭なまくらの評価も止まったままだった。焦りを紛らわすように酒量が増え、心身ともに摩耗していく馬楼は、高座でも致命的な粗相を重ねてしまう。「やっぱり馬楼はあんなものだ」。周囲の冷淡な視線が逆戻りし、二人はそれぞれ見えない泥沼に足を取られ始めていた。

お題46 稽古場の舞台で、馬楼は「好き、か」と一人呟いていた。ひなが口にした「嫌いじゃない」という言葉を脳内で都合よく書き換えながらも、芽の出ない己が前途ある彼女に見合うのか懊悩する。不安のあまり、甘えたかと思えば冷たく突き放すなど、態度は迷走を極めた。一方のひなも、想いを伝えたはずの男のぎこちなさに苛立ちを募らせる。「あがくって何よ」。落ち込むたびに救ってくれた不器用な優しさに感謝しつつも、自分は彼に何をしてやれたのか。答えの出ない問いを抱え、ひなは音のない自室で一人ため息を漏らしていた。

お題47 夜道を並んで歩きながら、ひなは思い切って切り出した。「私、何かあなたにしてあげられることって、ないのかなあ」。馬楼は照れ隠しに茶化しつつも、「ひながこうして隣にいてくれるだけで十分なんだ」と呟く。キザを気取るその声音に、迷子の子どもが母親の裾を必死に握りしめているような頼りなさを感じ取り、ひなの胸は微かに疼いた。それでも、些細なことで口論を始めては翌日にはけろりと仲直りし、他愛ない冗談に笑い転げる。危うい均衡の上にありながら、互いの温もりを手放せない日々が、ずるずると続いていった。

栄光への切符と、嘘つきの愛

お題48 米山共子のレッスンで、ひなは再び深い霧の中に突き落とされる。「静かな湖の水面を撫でる風のようね。でも、なんだか物足りないのよ」。完璧な技巧を讃えられながらも、その正確さこそが弱点だと宣告される。「頭でっかちにならず、心の動くままに、もっと自由に弾いてごらんなさい」。感情を爆発させれば大袈裟と退けられ、抑えれば魂が泣いていると叱責され、今度は自由を求められる。振り子のように揺れる師の言葉に翻弄され、ひなは途方に暮れた。自分だけの自由な音とは何なのか、胸に手を当てても答えは響いてこない。

お題49 馬楼の荒れた生活は深刻さを増していた。健康を過信した深酒は情緒を狂わせ、酔うたびにひなへの依存を深めていく。「ひなぁ、俺のこと嫌いになったりしねぇよな? 見捨てねぇって契約書書こ、契約書!」。縋りつく馬楼の瞳には、底知れぬ怯えの色が宿っていた。暴力を振るうことは決してないものの、幼子のように泣きつくその姿は、暗い井戸の底を覗き込むような底知れぬ不安をひなに抱かせる。痛々しい彼を受け止め、抱きしめるたび、ひな自身の心も重荷に軋み、すり減っていくのを止められなくなっていた。

お題50 レッスンの後、米山共子は弟子の異変を鋭く見抜いた。「あなた、最近何かあったの? 必要以上に真正面から向き合いすぎて、自分を苦しめているのではないかしら。人生をもっと自由に謳歌していいのよ」。その歌うような助言が、張り詰めていたひなの琴線を無惨に弾き飛ばした。「私の自由って一体何なんですか! 先生の言う通りに弾くことが私の自由なんですか!」。激しい叫びが響き渡り、共子の顔は凍りついたように固まる。取り返しのつかない感情の爆発に青ざめ、ひなは深々と頭を下げながら戦慄していた。

お題51 師への感情の爆発を機に、ひなは曖昧な関係に決着をつける覚悟を固めた。ある夜、月明かりの下で真正面から問いかける。「ねぇ、馬楼さん。本当のところ、私のこと、どう思ってるの?」。いつもなら軽口で誤魔化す男が、珍しく長い沈黙の末に絞り出したのは「分かんねぇ」という頼りない本音だった。「でも、ひながいなくなったら、俺は、きっと、ものすごく寂しいと思う。それだけは、確かだ」。告白とも弱音ともつかないその言葉に、胸を温められつつも不安は消えない。「ありがとう、ね」。そう返すひなの唇は、微かに震えていた。

お題52 二人の危うい逢瀬を遠巻きに見つめていたのは、居酒屋「あちこち」の面々だった。常連の徒然士が杯を傾けながら、「あたかも己が身ひとつを頼みに危うき綱を渡る軽業師を観る思いがする」と講釈を垂れる。世渡りの才覚さえあれば、こんな吹き溜まりで売れぬ芸に現を抜かすこともなかったろうにと嘆息する文学講師へ、大将のまっちゃんが「こんな店で悪かったな!」とカウンターから豪快な笑声を浴びせる。呆れ果てながらも、不器用な歩みを止められない二人を放っておけない温かな眼差しが、酒場の空気を包み込んでいた。

お題53 音巴里荘の練習室でピアノに没頭するひなの胸には、馬楼の残した「寂しい」という言葉がわだかまっていた。求めていたのは、未来を照らす確かな光だったのではないか。迷いを抱えたひなは、カフェ「小古庵」で氷上静に胸中を打ち明ける。静は穏やかに諭した。「月は自分一人では光れないけれど、本当に真っ暗闇の中では、足元を確かに照らしてくれる力を持っているものよ」。友の言葉を反芻するひなの鞄の中で、米山共子からの着信が鳴り響く。出なくていいのかと目配せする静に、ひなは静かに首を振り、画面を伏せた。

お題54 ここあん村立美術館を訪れた氷上静は、展示室で米山共子と遭遇する。ひなの友人だと告げた静が「及第から合格に変わるには、何が足りないのでしょう」と切り込むと、共子は冷徹な仮面を崩して語り始めた。「あの子はまだ固い蕾。咲き方を知らずに花を開かせたら才能を殺すことになるわ。殻を破らせるためなら、私はいくらでも憎まれ役になる覚悟ができているの」。友と師の領分を弁え、この話を秘密にするよう釘を刺す共子。厳しい指導の裏に秘められた師の覚悟と深い情愛に触れ、静は粛然と襟を正していた。

お題55 隘路にはまり込み、鳴らないピアノの前で焦燥を募らせるひなに、共子は静かに語りかけた。「今のあなたを一番縛っているものは何だと思う? 私の言葉も重荷になっているのかもしれないわね」。感情をぶつけ合って以来の緊張を解くように、師は優しく諭す。「結果や評価じゃない。子供が砂場で遊ぶように、ただ音と戯れてみて。あなたの心が本当に求める音を、もう一度探すのよ」。かつての厳罰主義とは違う、弟子の苦しみに寄り添おうとする師の柔らかな響きが、迷い疲れたひなの心を微かに包み込んでいた。

お題56 同じ頃、居酒屋「あちこち」のカウンターで熱燗を呷っていた馬楼は、不意にみぞおちを押さえて呻き声を漏らした。大将のまっちゃんが「ひなちゃんもお前のこと、本気で心配してたぜ」と覗き込むが、馬楼は虚勢を張って酒を流し込む。店を出た夜道、激しい痛みに冷や汗を流しながら、病院へ行くべきか逡巡する。「怖いんだよ、結局。それに金だってねぇしな」。重大な異変から目を背け、必死に言い訳を並べ立てる馬楼。その心の悲鳴を受け止める者もなく、鈍痛と黒い不安は月のない夜の闇へ沈んでいった。

お題57 師匠のなまくらに同行した二週間の地方巡業は、馬楼にとって惨憺たるものとなった。体調不良も重なり、高座に上がるたび失敗を重ねて客席を冷え切らせる。迎えた最後の夜、なまくらは真顔で告げた。「お前、落語家には向いていないのかもしれないな。自分の道は自分で決めな」。事実上の破門宣告に絶望する馬楼へ、師は声音を和らげて続ける。「身体が相当悪そうじゃないか。実家でしばらく養生してきなさい」。師の温情に涙を落としながら、実家のある温泉街を前に、馬楼の脳裏にある思惑が芽生えていた。

お題58 馬楼が長野へ向かい、東京でひとり過ごすひなは、商店街で居酒屋「ここきた」の愛子ママに呼び止められた。「最近姿を見ないけど、元気にしてるの?」。実家で静養中だと伝えて安堵させたものの、愛子ママは彼が激しく痩せていたことを深く案じていた。「あの子、ガラスみたいに繊細なんだから、よろしくね」。街の人々に二人の仲が見守られている気恥ずかしさを覚えながら、ひなは愛子ママにある頼み事を切り出す。驚きつつも事情を察した愛子は、愛おしそうに満面の笑みを浮かべて頷いた。

お題59 東京に戻った馬楼を、ひなは音巴里荘の部屋に迎えた。食卓に並んだのは、愛子ママの手ほどきを受け、大切な指を火傷しそうになりながら作った手製の筑前煮だった。土鍋の湯気に眼鏡を曇らせ、「美味そう」と子どものように喜ぶ馬楼。しかし箸を運ぶその横顔は痛々しいほどに痩せこけていた。他愛ない冗談で場を和ませる彼へ、ひなは意を決して問いかける。「ねえ、身体の調子、どうなんですか?」。問いかけに馬楼は口を閉ざし、ただ「美味しかった」と呟いて視線を落とすことしかできなかった。

最後の夜の「芝浜」と、それぞれの道

お題60 数週間後、ひなのもとに東北の交響楽団から専属ピアニストへの正式オファーが舞い込む。代弾きから脱却し、己の名で大舞台に立てる破格の好機だった。しかしそれは、東京の生活と、馬楼との危うくも愛おしい関係に別れを告げることを意味していた。恩師の米山共子に感謝を告げるひなだったが、師の返答は奇妙なほど他人行儀だった。「思う存分やってらっしゃい」。推薦の労を尋ねても、共子は煙に巻くように笑うばかり。一体誰がこの夢のような扉を開いたのか、ひなは解けぬ謎に胸騒ぎを覚えていた。

お題61 オファーの報告を胸に、ひなは雨の路地を進み、馬楼が暮らす木造アパート「メゾン干物箱」を訪ねた。薄暗い廊下の奥、斜めに貼られた名札には「馬楼」の下に小さく本名の「小林」とある。控えめにノックするも返答はなく、隣室から顔を出した男性に「さっきフラッと出かけたよ。カノジョさん?」と勝手に鍵を開けられそうになり、慌てて辞退した。雨上がりの生ぬるい風を浴びながら、不在なら向かう先は一つしかないと空を見上げる。いつもの公園へ、ひなは歩みを速めた。

お題62 雨上がりの公園に足を運ぶと、いつものベンチ脇で馬楼が一人、落ち着きなく歩き回っていた。落語の稽古かと思いきや、風に乗って耳に届いたのは切羽詰まった呟きだった。「もしもこの俺が真打に昇進できたらさ、その時は、俺のおかみさんになっておくれでないかい」。耳を疑うひなは心臓を跳ね上がらせ、その場に立ち尽くす。プロポーズの稽古に違いない。顔を真っ赤にして必死に言葉を繰り返す姿を直視できず、ひなは声をかけられぬまま、胸の鼓動を抱えて静かに引き返した。

お題63 東北行きを前に、ひなは氷上静へ苦悩を打ち明けた。「こんな好機は二度とない。でも、馬楼さんを一人ここに置いていくなんてできない気がして」。揺れる友を、静は確固たる眼差しで見つめる。「真の結びつきとは、互いの独立性を前提としてなお存続しうるものよ。過剰な心配は無用と考えなさい」。理路整然とした後押しに迷いを晴らしたひなは、「難しくて明日には忘れそうなので、要点をメールで送ってください」と頼み込み、静の苦笑いを誘いながら前を向いた。

お題64 夜の公園で、ひなは馬楼に専属契約の受諾を告げた。「遠くなっても、いい関係でいたい」。祈るような言葉を、しかし馬楼は「おめでとうございます。で? 俺にどうしろと? さっさと行けよ!」と冷淡に突き放す。「こんな売れない落語家はおいて行けばいいだろう!」と声を荒らげる男に、昼間のプロポーズを問い詰める気力も失せ、大粒の涙が頬を濡らす。「分かった。私、行く」。背を向けて立ち去るひなの後ろで、馬楼の握りしめた拳は小さく震えていた。

お題65 音巴里荘の自室で泣き伏していたひなは、深夜、玄関の隙間から滑り込んできた紙片に気づく。資源回収のチラシを裏返すと、見慣れた乱暴な筆跡で「東北の星になれ!」と墨黒々と書かれていた。扉を開けようとするも外から塞がれ、押し問答が始まる。「開けなさいってば」「俺じゃねえって言ってんだろ」。無理にこじ開けると、廊下に転がっていたのは馬楼だった。「入りなさいよ」。冷たい仕打ちへの怒りも忘れ、ひなは呆れた調子で彼を部屋へ招き入れた。

お題66 床に並んで座り、冷えたミントティーを口にする。他愛ない軽口を交わすうち、ひなは背筋を正した。「最後に、あれを聞かせてほしい」。今宵の大トリは酔酔亭馬楼師匠、演目は「芝浜」と、出囃子を完璧にハミングしてみせる。「最後とか言うなよ」と掠れた声を漏らしつつも、馬楼の目元が緩んだ。その時、音巴里荘の住人たちの騒がしい歌声が響きわたる。二人は顔を見合わせると、「静かな場所へ行きましょう」と頷き合い、中庭を抜けて離れの音楽室へと急いだ。

お題67 防音扉に守られた音楽室で、二人は座布団を互いの前に差し出し、向かい合って正座した。たった一人の客となったひなへ向け、馬楼は渾身の「芝浜」を語り始める。声が裏返り、言葉を詰まらせながらも、台詞の端々に万感の想いが滲んでいた。夫婦の情愛に胸を打たれ、ひなの頬を涙が伝う。高座が終わると、ひなは無言でグランドピアノの前に進み出た。心に紡いできた名もない旋律を鍵盤に託し、溢れる情熱を音に乗せて彼へと返す。二つの魂が確かに響き合っていた。

お題68 演奏を終え、壁にもたれて座るひなは、「お互いに有名になって再会したら、周りの目を盗んであの公園で缶ビールで乾杯しましょう」と微笑んだ。二人は静かに拳を突き合わせ、約束を交わす。ふとひなが「オーケストラが東北だなんて私、言ってないよ」と問い詰めると、馬楼は「顔にそう書いてあった」と慌てて誤魔化す。ぎこちない言い訳に、ひなは追及をやめた。言葉以上の確かな温もりが胸を満たし、離れても消えない絆を信じることができていた。

お題69 音巴里荘を辞した馬楼は、湿った公園のベンチに横たわり、雲間に滲む月を仰いだ。ひなの東北行きを仕組んだのは他ならぬ彼自身だった。学生時代、東日本大震災の復興ボランティアで知り合った財団の幹部と長野で再会し、埋もれていた彼女の類稀な才能を必死に訴え出たのだ。持病の不安を抱え、己の先行きが見えぬからこそ、愛する人の背中を未来へと押し出したかった。「東北の星になれ」。突き放した言葉の裏に込めた不器用な祈りを、夜風が静かに包み込む。

お題70 旅立ちを目前に控え、実家で身辺整理を終えたひなは氷上静の自宅を訪ねた。そこには静のパートナーである中野小春の姿もあった。温かな団欒ののち、玄関先で静はひなを力強く抱き締める。「東北で輝いてらっしゃい」。「私、東北の星になります」。馬楼と同じ言葉で背中を押され、ひなは晴れやかに応えた。見送った庭先で、静と小春は夕空の半月を仰ぐ。太陽の光を浴びて自らの輝きへと変える月のように、不器用な二人の絆が揺るぎなく続くことを願いながら。

お題71 旅立ちの日、東京駅の新幹線ホームに馬楼の姿はなかった。発車ベルが響く人波の中、ひなは赤い服を必死に探すが、見慣れた姿は見当たらない。胸を締めつける寂しさをこらえ、一人車内へ足を踏み入れた。かすかに揺れる座席で、ひなは便箋を広げる。「馬楼さん、今まで本当に、本当にありがとう。あなたの落語、私は、大好きでした。どうか、お元気で」。万感の想いを綴った末、迷いながら最後にもう一言を書き添える。前を向いて未来へと走り出した列車の中で、ひなは静かに涙を拭った。

あとにはひけない

お題72 ひなが東京を去った後、一人残された馬楼の生活は荒れ果てていった。毎夜のように酒場へ居座っては泥酔し、記憶をなくすまで煽る日々が続く。朦朧とする頭の片隅に、かつてひなが真っ直ぐな瞳で語りかけてくれた言葉が蘇る。「あなたはきっと、ものすごい落語家になるわ。私、絶対に信じてるから」。しかし、自信も進むべき路も見失った今の馬楼には、その眩しい励ましさえ己の無力さを際立たせる残酷な響きに思えた。痛む身体を抱え、底なしの孤独に沈みながら、馬楼は夜の闇の中で杯を重ねていた。

お題73 東北のひなから届いた便りには、無事の到着と新天地での奮闘、そして感謝が端正な文字で綴られていた。しかし最後は、「さようなら」の五文字で結ばれていた。再会の約束を塗り替える決別の言葉に胸が詰まりながらも、馬楼は彼女の覚悟を真っ向から受け止める。居酒屋「あちこち」のカウンターで文面を握りしめる馬楼へ、大将のまっちゃんが「温まりな」と徳利を差し出した。「大将、すいません。って、これ白湯じゃないですか」。力なく笑う馬楼の眼鏡の奥で、潤んだ瞳が小さく揺れていた。

お題74 周囲の不安は最悪の形で現実となった。高座の最中に突如激しい腹痛に襲われた馬楼は、そのまま昏倒して舞台に崩れ落ちたのだ。救急搬送された大学病院へ師匠の酔酔亭なまくらや一門が駆けつけるが、医師から告げられた病状は極めて深刻で、予断を許さぬ状態だった。遠く離れたひなに知らせるべきだと誰もが案じる中、病床の馬楼は酸素マスクの下から掠れた声で「今はだめだ」と頑なに拒み続けた。彼女の夢を邪魔したくない一心で、迫り来る危機を伏せたまま、馬楼は生死の境を彷徨っていた。

お題75 大学病院のロビーで面会を待つ酔酔亭なまくらは、定期検診で訪れた米山共子と遭遇する。幼馴染みである共子からひなの目覚ましい飛躍を聞き、目を細めるなまくらだったが、話題が愛弟子に及ぶと表情を曇らせた。「あの野郎、ここのベッドでくたばりかけてる」。馬楼がひなと惹かれ合っていた事実を知り、絶句する共子へ、なまくらは深々と頭を下げる。「このことは、ひなちゃんには内緒にしておいてくれよ。あいつの頼みだ」。「私からは何も言わないわ」。師としての共子は静かに約束を交わした。

お題76 ロビーを訪れた弟弟子の馬太郎へ、なまくらは一通の手紙を託して病棟を後にした。病室に入った馬太郎が「師匠からです」と手渡した便箋には、破門の撤回とともに、不器用ながら熱い師の言葉が躍っていた。「お前は必ず人を心から笑わせ、泣かせられる落語家になれる。しっかり治して戻ってこい」。手紙を胸に抱いて静かに瞳を閉じた馬楼は、やがて眼前の若き真打へ、病床とは思えぬ鋭い視線を向けた。「馬太郎、ちょっと頼まれ事をしてくれないか」。その双眸には、凄まじい気迫が宿っていた。

お題77 馬楼の急報は居酒屋「あちこち」にも届いていた。店内には、かつて馬楼が手ブレで月を二重に撮ってしまった失敗写真が飾られている。「この写真みたいに、ブレてでも一つになればよかったのにな」と大将のまっちゃんが肩を落とすと、常連の徒然士が静かに口を開いた。「二重の月は仮象に過ぎず、背後には唯一無二の月がある。彼らの別離も仮象であり、分かち難き宿縁で結ばれていると解釈すべきです」。文学講師の難解な慰めに、まっちゃんは「見舞いに行ったらそう言ってやれ」と景気よく手を叩いた。

お題78 満月の夜、氷上静は自宅の庭でパートナーの中野小春とハーブティーを手に語り合っていた。以前、二人の関係を月に例えた言葉を振り返る小春に、静は穏やかに語りかける。「月はただ太陽を反射するだけでなく、夜を照らす光へと変容させる。誰を強く照らすかは月自身が選んでいるのよ」。形を変えながらも続いていく二人の絆を信じる静の言葉に、小春は静かに微笑んだ。「少し疲れたかも。何か面白い話を聞かせて」。知的な仮面を外し、小春の肩に寄り添った静の頭上を、銀色の月光が温かく包み込んでいた。

お題79 数年後、東北の専属からソリストとして飛躍を遂げたひなは、演奏旅行先のホテルで偶然ラジオのスイッチを入れた。流れてきたのは、代弾き専門のピアニストと売れない落語家の恋を描いた新作落語「代弾きピアニストの恋」だった。美術館や公園での記憶がありありと蘇り、羞恥と怒りはいつしか温かな懐かしさへと変わる。そして迎えたサゲは「ピアニストだけにね、もう、あとにはひけないんです!」という力強い言葉だった。演者は酔酔亭馬太郎。「あとには、ひけない」。ひなは前を向き、己の足で歩む決意を新たにした。

お題80 同じ頃、居酒屋「あちこち」でも同じ放送が流れていた。「あとにはひけないんです」というサゲを聞き届け、まっちゃんが呟く。「馬太郎がまとめると、あいつのドタバタがこんな落語になるんだな」。常連の徒然士が「ご都合主義」と評するのに対し、大将は破顔した。「あいつ自身が落語の世界の住人なんだよ。本当に落語の中に入っちまった」。存在そのものが落語的なのだと納得した徒然士に、まっちゃんは「論より情、見通しよりお通しだよ!」と威勢よく笑い声を響かせ、姿なき友を温かく寿いだ。

お題81 洋館の自宅でその落語を耳にしていた氷上静は、新作が馬太郎と馬楼の共作だと知り、静かに書棚の本を開いた。お気に入りの詩の頁には、かつて挟んだ栞紐の跡が、忘れがたい記憶の傷のように窪んでいた。誰に知られることもなく過ぎ去りながら、確かにそこに存在した日々の証。不器用で遠回りばかりしながらも魂を通わせ合ったひなと馬楼の姿を重ね、「こんな遺し方」と静はひとり呟いて本を閉じる。形を変えて物語の中に永遠となった二人の歩みに、静かな祈りを捧げるようにそっと微笑んでいた。

お題82 新作落語「代弾きピアニストの恋」のサゲには、知られざる真相があった。馬太郎が当初構想していたのは、手製の筑前煮の味にかけた「この恋も料理も、どうにもこうにも『あとをひく』んでございます」という人情味あふれる結末だった。しかし病床の馬楼が「それではだめだ」と頑として譲らなかったのだ。未練を残すような幕引きを退け、「あとにはひけない」と前へ進むサゲを託したのは、ひなへ向けた馬楼の切なるエールだった。己の想いを隠し、彼女の自立と飛翔を祈る男の執念が、噺の中に宿されていた。

お題83 月日が流れ、被災地の復興支援コンサートでひなはピアノを弾いていた。ロビーに響く柔らかな旋律の中、出口へ向かう騒がしい男たちの声が耳に飛び込んでくる。羽織姿の酔酔亭なまくらに連れられた、真っ赤な袈裟の僧侶が「人がバタバタ死ぬ話はマズいって言ったでしょ!」とテノールで喚いていた。ひなは振り返らず、即興で「二つ目の落語家の恋」と名付けた温かな旋律を織り交ぜる。「代弾きピアニストの恋」へのアンサーソング。ピアノの音色は、巡り合えた懐かしい声へ向け、何度も「ありがとう」を繰り返していた。

お題84 ホテルの出口へ向かっていた馬楼は、ロビーから流れてくる懐かしいピアノの調べにハッと足を止めた。振り返ろうとする背中をなまくらに急かされ、ピアニストの姿を確かめる間もなく連れ出される。「どこでも、元気にやってさえいれば、それで十分」。長野の寺には、法話で噛みまくる真っ赤な袈裟の若い僧侶がいるという。直接言葉を交わすことはなくとも、二人は音楽と声を通して確かに魂を通わせ合っていた。見上げる夜空には大きな満月が冴えわたり、それぞれの道を歩む二人を優しく照らしていた。

了

作・千早亭小倉

スピンオフの紹介

番外編01「遠心力と赤い抜け殻」
深夜のコインランドリーで、乾燥機の中で回る赤いオーバーオールを眺める馬楼。回転の合間に衣類が落下する一瞬の間合いにこそ江戸落語の粋が宿ると力説します。呆れ顔で本を読んでいたひなでしたが、窓の向こうで踊るように翻る赤い布の動きに、代弾きとしての職業病が刺激されます。不規則な回転音を音楽として捉え、指先でリズムを測り始めるひなでした。何気ない日常の風景の中にそれぞれの芸道へのこだわりを見出し、無意識に呼吸を合わせるふたりの心地よい距離感が描かれた一編です。

番外編02「たい焼きの切り身」
古いアパートの一室で、一匹のたい焼きを前に馬楼が大仰な講釈を始めます。頭から尻尾への流れを断ち切る残酷さや、どちらを選ぶかに人間の業が出ると熱弁を振るう馬楼を横目に、ひなはあっさりとたい焼きを真っ二つに割ります。そして「強欲な頭」と称してあんこたっぷりの部分を馬楼へ押し付け、自分は皮の香ばしい尻尾を美味しそうに口へ運びます。面倒な屁理屈をこねる馬楼とそれを自然体で受け流すひなの、気兼ねのない阿吽の呼吸と日常の温もりが心地よい一編です。

番外編03「白と黒の不均衡」
防音スタジオでピアノに向き合うひなは、白鍵と黒鍵が織りなす不規則な凹凸に意識を留めます。すべてが等間隔で平坦であれば指は迷子になってしまいますが、出っ張りと窪みという不揃いな構造があるからこそ、指先は正しい位置を見出すことができます。均一ではない歪さこそが秩序を支えているという合理性に美しさを見出したひなは、確信を持って鍵盤に指を構えます。完璧主義のピアニストであるひなが、アンバランスさの持つ価値や世界の美しさに気づく、静謐で哲学的な横顔が見える一編です。

番外編04「鉄路の軋みと耳の聖域」
高架下の歩道で、頭上を通過する電車の激しい軋み音にひなは耳を押さえて立ちすくみます。絶対音感を持つひなにとって、不協和音の轟音は脳を切り裂かれるような暴力でした。安易な慰めが雑音にしかならないと理解している馬楼は、自らの朱色のドカジャンを脱ぎ、ひなの頭から優しく被せます。視界を遮られ、馬楼の落ち着いた低音の導きを聞きながら、ひなは過酷な騒音をやり過ごします。研ぎ澄まされた感覚ゆえのひなの苦痛を深く理解し、言葉少なに寄り添って守る馬楼の包容力が際立つ一編です。

番外編05「不便の天才」
寄席の楽屋で、弟弟子たちが兄弟子・馬楼の奇行について語り合っています。喉に引っかかる極太の蕎麦を頼んで涙目で飲み干したり、足腰を鍛えると称して階段を上り詰めて高座で足が痺れて動けなくなったりと、馬楼の効率を無視した不器用な生き方は常軌を逸していました。そこへ足に湿布を貼った馬楼本人が現れ、世の中に馬鹿が一人もいないのは窮屈だと嘯きます。周囲から呆れられながらも、あえて困難で愚直な道を突き進む馬楼の芸人としての矜持と、独特の美学が伝わる一編です。

番外編06「階段落ちと黒歴史」
駅の地下通路の階段で、派手に滑り落ちて尻餅をついた馬楼。笑うひなに悔しがる馬楼が「そっちも失敗くらいあるだろ」と詰め寄ると、ひなは十年前の学生時代、酔い潰れてこの薄汚れた階段で行き倒れていた屈辱の黒歴史を白状します。軽口を叩き合うふたりでしたが、ひなは自分が差し伸べた手を、馬楼が転落の瞬間にあえて乱暴に払いのけた理由に気がつきます。互いの情けない素顔を暴露し合いつつ、相手を咄嗟に守ろうとする馬楼の無言の気遣いが光る、ふたりの距離が縮まる一編です。

番外編07「練習の死角と紅ショウガの憂鬱」
牛丼屋のカウンターで、馬楼は弟弟子の歌吉から最新技術を取り入れた珍妙な稽古の失敗を容赦なく突っ込まれていました。しかし馬楼には、決して誰にも明かせない致命的な失態がありました。かつて路上で電話を装って激しい痴話喧嘩の噺を稽古していた際、誤発信によってひなに電話が繋がり、三分間にわたって罵倒の台詞を一方的に聞かせてしまっていたのです。要領のいい弟弟子に振り回される馬楼の日常と、ひなの前で取り繕いたい見栄や小心さがユーモラスに浮き彫りになる一編です。

番外編08「練習の彼方と微炭酸の幻影」
喫茶店で、シラフで千鳥足を極めようとして警察沙汰になった顛末を得意げに語る馬楼。呆れるひなでしたが、店内のテレビに映る奇跡的なサッカースーパープレイを見た馬楼が「泥臭い反復練習の結晶だ」と熱弁すると、ふたりは芸道への想いを共有します。ところが、店のママから「誰にも見られない原っぱで、もっとすごいシュートを決める子がいるかも」と無常な一言を投げかけられ、ふたりは圧倒的な虚無に直面します。努力の儚さに打ちのめされながらも、同じ表現者として歩調を合わせて前を向く、ふたりの同志としての絆が深まる一編です。

番外編09「十三秒のユニゾン」
街に響く正体不明の十三秒間のハミング。不快な騒音として住民から反発を浴びるその音に、ひなは美しい倍音と安らぎを感じていました。音の主である疲れ切った技術者を救うため、ひなは撤廃公聴会の場に乱入し、会場のピアノで静寂をもたらす圧巻の演奏を披露します。世間を黙らせた達成感に浸りながら外へ出たひなでしたが、目を覚ますと、そこは西日の差すいつもの公園のベンチでした。超人的な聴覚を持つひなの知られざる内面と、理想の音を探求する芸術家ならではの横顔が鮮烈に描かれた一編です。

番外編10「ひなそば」
深夜二時のコンビニで、おにぎりを並べながら落語『時そば』の稽古に励む馬楼。小銭を数える際の間合いに苦戦していると、練習帰りのひなが現れます。ひなは休符の重要性を説き、レジカウンターを鍵盤に見立てて狂いのない完璧なテンポで台詞のお手本を披露してみせます。代弾きならではの精密なリズム感に圧倒された馬楼は、指導料として高級おにぎりを要求され、渋々レジを通すことになります。落語とピアノという異なる表現者が間とリズムを通じて呼応し合う、ふたりの職人的な相性の良さが光る一編です。

番外編11「ノーカン」
春の商店街で、楽譜を抱えて早足で歩いていたひなと、徹夜明けでぼんやりしていた馬楼が正面衝突します。転倒のはずみで、ひなの唇が馬楼の口元をかすめてしまいました。動転したひなは顔を真っ赤にして「ノーカンです」と叫び、脱兎のごとく逃げ去ります。その場に残された馬楼は、居合わせた知人を相手に、これまでのひなとの接触回数を日付やシチュエーション、さらには圧力の単位まで持ち出して克明に振り返り始めます。予期せぬハプニングに狼狽するひなと、無自覚に彼女との出来事を細部まで記憶している馬楼の、不器用な純情が際立つ一編です。

番外編12「干物箱」
馬楼の暮らす古びたアパート「メゾン干物箱」で、ひなは奇妙な建物名に呆れつつ冷めた茶をすすっていました。馬楼からその由来である落語『干物箱』のあらすじを聞かされたひなは、主役の身代わりとして完璧に演じきる職人の姿に、自らの代弾きという仕事を重ね合わせます。素材の旨味を凝縮させて出番を待つ干物の境地に密かに共感したひなは、ふいにその名を肯定的に受け入れ、馬楼を驚かせます。代弾きとしての誇りと葛藤を落語に重ね合わせ、普段は頑ななひなが静かに自分を肯定していく横顔が見える一編です。

番外編13「背中の祝儀」
薄暗いアパートの一室で、馬楼は師匠のなまくらに真打昇進が決定したことを緊張しながら報告します。弟子の吉報を喜ぶどころか、なまくらは「使いにくい高額商品になるだけだ」「誰も見ていない」と冷たく突き放し、テレビに向かって頑なに背中を向けます。肩を落として部屋を立ち去る馬楼。しかし、玄関の扉が閉まった途端、なまくらは受話器を引ったくり、贔屓筋の社長へ頭を下げて必死の売り込みを始めます。弟子の前では冷徹を装いながら、裏では泥をかぶって支援する師匠の不器用すぎる愛情が胸を打つ一編です。

番外編14「出来心と及第点」
公園で落語の本を開いていたひなは、演目『出来心』に登場する間抜けな泥棒の子分に、師匠から「心が足りない」と評される代弾きピアニストの自分を重ねて落ち込んでいました。そこへ赤いオーバーオール姿の馬楼が現れます。悩みを吐露するひなに、馬楼は師匠とは弟子が怪我をしないように立ちはだかる熱々の巨大こんにゃくだという、珍妙ながらも温かい持論を展開します。頑なだったひなの心が解けたところで、馬楼は夜のベンチで落語を語り始めます。芸の壁にぶつかるひなを、馬楼ならではの不格好で優しい言葉が救う、同志としての温かな信頼が伝わる一編です。

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[コント台本・掌編 約600本]

主な舞台は、椎名町三丁目から広がる箱庭「ここあん村」。箱庭コント作家・千早亭小倉の手による、どこか懐かしい日常劇やクスッと笑えるコメディ、沁みる掌編を絶賛公開中です。これからも「読むシットコム」の世界を追究していきます。
*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。 *The articles on this site were written by a human, peppered with AI. *引用の範囲を超える無断転載・複製を禁じます。 Copyright © 2025-2026 千早亭小倉|箱庭コントを紡ぐ 話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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