【登場人物】
糠森ひな:ピアニスト。師匠からの「及第点」という評価に喘いでいる。
米山共子:ひなの師匠。高名なピアニスト。弟子の才能を信じ、あえて壁として立ち塞がる。
【場面設定】
共子の自宅にあるレッスン室。窓からは午後の光が差し込んでいるが、室内には練習の熱気が残っている。ひなはグランドピアノの横にあるソファに、文字通り崩れ落ちている。

糠森ひな:……バタンキューです。
米山共子:バタンキュー?
ひな:もう、これ以上は鍵盤が押せません。死語なのは承知してますけど、今の私にはこの言葉しか似合いません。
共子:なるほどね。その「キュー」は、あなたの「きゅうちゃん」の「キュー」というわけね。
ひな:またそうやって、私の「及第点」を弄る。
共子:だってそうじゃない。及第点の音を出しながら、バタンと倒れる。バタンと倒れるのは、満点の演奏ができてからでしょう。いや、本当の完成を知る人は、倒れずにシャンと立っているかもしれなくてよ。
ひな:満点なんて、一生とれる気がしません。先生の教え方は、いつもどこか矛盾しています。
共子:音楽なんて矛盾の塊よ。ほら、そのマグカップのコーヒーを飲みなさい。冷めたらただの苦い水よ。
ひな:(上体を起こし、慎重にマグカップを手に取る)……いただきます。……あ、少し、ぬるいです。
共子:猫舌のあなたには、そのくらいが及第点でしょう。
ひな:飲み物の温度まで、先生が決めるんですか。
共子:私が決めているんじゃないわ。あなたがそれを「飲みやすい」と感じた時点で、それがあなたの現在地なのよ。
ひな:……理屈っぽいです。でも、このぬるさが今は、妙に落ち着きます。
共子:落ち着いている場合? 私など、この年になっても、常に求道者の気持ちでいるわよ。それに比べて……。
ひな:(急に顔を上げて)あっ……。
共子:な、なに?
ひな:先生も、「きゅうちゃん」だったんですね。
共子:……なんですって?
ひな:「求道者」の、きゅうちゃん。
共子:(一瞬言葉を詰まらせ、背筋をピンと伸ばす)……ふん。それくらい言えたらもう大丈夫でしょう。ほら、レッスン再開!
ひな:はーい。
(幕)
作・千早亭小倉
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