スケッチ「外心」

椎名町三丁目の路地裏、「ものがたり屋」。

テーブルを挟んで、二人の女が座っている。真田まるは、古い急須から湯呑みにほうじ茶を注いでいる。空野円は、窓の外を流れる雲を見ている。

真田まるまどかさん、お茶入ったよ。今日のは、よく炒ってあるやつやねん。熱いうちに飲んでな。

空野円:ありがとう。でも、熱さは時間とともに奪われていくものです。冷めるのを待つか、今すぐ喉を焼くか。どちらにしても、行き着く先は同じ。

まる:相変わらず、難しい顔して雲ばっかり見てるんやね。そないに空の上が面白い?

:面白いわけではありません。ただ、あそこには誰も立っていないから、見ているだけです。

まる:誰も立ってへんからええんやったら、私の淹れたお茶でも見ててえな。

:あそこ、外を歩く三人の学生が見えますか。彼らは互いを知らないでしょうが、今、彼らを頂点とした三角形の外接円が、道路の上に一つだけ存在しています。

まる:また、そういう話やね。図形の話。

:ええ。彼らが無作為に立ったその場所が、新しい中心を定義しているのです。そして、その中心から三人の距離は全く同じになります。完璧な均衡です。

まる:そんで、その中心には誰がおるん?

:誰もいません。誰にも一番近くない、完全な中立地帯です。

まる:それ、えらいさみしい場所やねえ。誰の横にもおらんってことやろ? 私やったら、そんな見えない真ん中の場所に立つより、だれかの横に行って、お茶飲むほうがええわ。そっちのほうが、あったかいし。

:まるさんは、あらかじめ用意された座標に立つより、自分の足で歩き、任意の相手との距離を不規則に測り直すことを選ぶのですね。

まる:測り直すなんて邪魔くさいことせんよ。ただ、隣に座るだけや。

:「えん」という文字は、中心と距離という規則から導き出される概念です。私の「まどか」という名前も、争いがなく調和している状態を、少し離れた場所から眺めているような響きがあります。外心の中心点のように。

まる:外心? ああ、さっきの円の話? そないに言うたら、私の「まる」かって似たような響きやんか。角がなくて、ころころ転がるみたいな。

:いいえ。まるさんの「まる」は、質量を持った実体です。指先で触れたとき、皮膚を刺す角がないという、生々しい現実の確認にすぎません。私のように、初めからそこにある空間ではないのです。

まる:なんや、私だけえらい泥臭いみたいに言うやんか。せやけど、円さん。あんさんが外側からじっと眺めてるその調和とやらは、喉が渇いたときに助けてくれるん?

:助けません。ただ、そうあるだけです。

まる:ほら。やっぱり、私が淹れたお茶のほうがええ仕事するやろ。ほっぺたの裏側からじわっと温かくなる、この丸い湯呑みがあれば、見えへん円周なんか気にせんでええんよ。

:まるさんのその現実への執着は、乾いた川を渡るために必死で造り上げた舟のようですね。水などどこにもないのに、どうしてそんなに一生懸命、櫂を漕いでいるのですか。

まる:……ふふっ。円さん、あんさんほんまに面白いわ。水がないのに舟漕ぐアホやと思われてるんやねえ。

:何かおかしいことを言いましたか?

まる:ううん。ただね、若いころね、私、ちょっとチクチクした詩を書いててん。ペンネームは、「Malicious Rain」。

:マリシャス、レイン。「悪意の雨」、ですか。

まる:「マリシャス」の「マリ」が、「まる」と似てるやろ? 最近のAIやったら絶対興味持たんような、しょーもない言葉遊びやけどね。

:……ただの音の羅列の偶然ですしね。でも、まるさんが誰かを水浸しにするような言葉を降らせていたとは、少しだけ興味が湧きました。

まる:遠くの国でね、子どもらの上に平気で大きな爆弾落としてる偉いおじさんとか、四角い画面の中で、顔も知らん相手にずっと小石を投げ合ってる人らを見ててね。そういうの、全部洗い流したれって思って、悪意の雨を降らせるつもりで書いてたんよ。

:……なるほど。まるさんは世界という巨大なシステムに対して、皮肉な、言葉というノイズで抵抗しようとしていたのですね。

まる:でもね、ある時気づいたんよ。私がどれだけ冷たい雨を降らせたつもりでも、地面に着く前に、からからに乾いて消えてしまうんやなって。誰も濡れへんし、なんにも変わらへんの。

:……上空の雲から降る雨が、地表に届く前に乾燥した空気で蒸発してしまう現象。気象学では、それを「Virga」、日本語で「尾流雲」と呼びます。

まる:へえ、そんな名前がついとるんや。……せやから今はもう、雨なんか降らせへんよ。この小まいお店で、泥のついた靴で入ってくるお客さんに、あったかいお茶出して、話を聞くだけや。

:世界がただ無関心に運行しているという事実を受け入れたのですね。それは、一つの正しい諦めです。

まる:諦めやないよ。それに……。

:それに?

まる:別のだれかが、悪意の雨を降らしてくれとるようやし。うちは卒業。喉が渇いた人には、乾いた雨の詩を読ませるより、この丸い湯呑みを渡すほうが早いやろ、って話。ほら、円さんも。理屈こねてんと、冷める前に飲んでえな。

:別のだれか……そうですね。見えない図形の話はもうやめましょう。今はただ、この「まるい」土の塊が、私の手に熱を伝えているという事実だけを受け入れるとします。

空野円は、細い指で湯呑みを包み込み、ゆっくりと口をつける。真田まるは、その様子を満足そうに、目を細めて見守っていた。

(了)

作・千早亭小倉

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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