【登場人物】
はるひこ:10歳の長男。路線図の漢字をじっと観察している。まさよしに「おんぱりそ」と呼ばれている。
まさよし:父親で弁護士。英語のペーパーバックを開いて不機嫌そうにしている。
みちこ:母親で専業主婦。座席の背もたれに沈み込んでいる。
なつひこ:5歳の次男。窓の外を見ながら耳元で指をこすり合わせている。
【場面設定】
昭和47年。ガタンゴトンと揺れる小田急線の車内。はるひこが電車のドアの近くに立っている。まさよし、みちこ、なつひこは、横一列に並んで座っている。車内には少しだけカビ臭いようなシートの匂いがする。電車が「和泉多摩川駅」に到着する。
(はるひこがホームの柱に取り付けられた板の駅名を見ている)
はるひこ:いずみたまがわ〜、いずみたまがわ〜。ねえ、おとうさん、この駅の「和」ってなんて読むの? もしかして、「わいずみたまがわ」が正しいの? これって、もしかしておとうさんが大好きな……。
まさよし:(開いたペーパーバックから目を上げずに)ああ? おんぱりそ、それは誤訳ではないぞ。その「和」は読まなくていいんだ。
はるひこ:読まないの? 書いてあるのに?
(ドアが閉まり、電車が発車する)
まさよし:昔は「泉」という字だけで「いずみ」だったのだ。だが、古い日本で、地名は漢字二文字にしようというルールができた時に、「和」の字を後からくっつけたんだ。縁起がいいからな。ただの飾りだ。
(みちこは、「ほんとに?」と少し疑ったような視線をまさよしに送っている)
はるひこ:ふうん。書いてあるなら……(多摩川を通過)あ、多摩川。次は登戸〜、登戸でございます。
まさよし:(鼻を鳴らして)やかましいぞ、おんぱりそ。英語にも書いてあるのに発音しない「黙字」と呼ばれるものがある。
はるひこ:え、目次? 本に付いている目次?
まさよし:(それには応えず)今、私が読んでいるウッドハウスのLeave it to Psmithの主人公の名前もそうだ。
みちこ:はるひこにはそこまでわからないわよ。
まさよし:ふん。(表紙のPsmithの文字をなぞる)この最初のPの文字は発音しない。これも飾りみたいなものだが、そこにはイギリス特有の洗練されたユーモアがある。ただの無駄とは違う。
みちこ:(目を閉じて、電車の揺れに合わせて首をカクカクさせながら)ユーモア……、おとうさんにいちばん足りないものね。
(まさよしが、むっとする)
なつひこ: らっら、らっら……。
(なつひこが席を立って、はるひこのそばにくる。窓ガラスにおでこを押し付ける。コツン、コツンと鈍い音がする)
はるひこ:あるのにないんだって、なっちゃん。縁起がいいんだよ。あ、おとうさん。
まさよし:なんだ?
はるひこ:お父さんの頭からいつも出てるもわもわした湯気も、音もしないし、誰も触らないでしょう? 本の「目次」と同じだね。縁起がいいんだ。
(みちこが苦笑する)
まさよし:(おでこにしわを寄せて、ペーパーバックをバタンと閉じる)やかましい! これは私の知性とこの国の湿気が摩擦して生じる必然的な現象だ! あと、「目次」ではないぞ、「黙字」だ。
みちこ:(小さい声で、だれに言うでもなく)わからないわよ、それじゃ。
(まさよしの頭の湯気が少しだけ濃くなる。プシューという音とともに電車が駅に停まる)
なつひこ: だっ!
(なつひこが、車内の通路を横向きにぴょんぴょんと三回跳ねる。そして元いた席に座り、指をこすり合わせ始める)
はるひこ:(ポケットからノートを出して鉛筆で書き込む)『お父さんが目次を頭から出す。』。
(再びガタンゴトンという電車の音が響き、なつひこの「らっら」というハミングだけが車内の空気に溶けていく)
(幕)
![[公式]千早亭小倉の世界 | ここあん村案内所](https://atelier-cocoan.com/wp-content/uploads/2026/04/20260410_125128.jpg)


