コント「チキンハート煮」

【登場人物】
渡良瀬 エミ:20歳のお嬢様女子大生。ここあん村から離れて一人暮らし中。強大な包容力を持つ母の愛子に対し、自分はキャパシティが狭いとコンプレックスを抱いている。
平泉 慧:ここあん大学大学院生(理論物理学専攻)。エネルギー保存の法則を遵守する、絶対静止の省エネ主義者。
花野 環奈:ここあん大学大学院生(古生物学専攻)。万物を地質学のスケールで捉え、汚部屋を地層と呼ぶ。

【場面設定】
ここあん村から離れて一人暮らしをしている渡良瀬エミが、母の愛子から仕送りで届いた居酒屋「ここきた」名物の筑前煮を自宅で温め、タッパーに詰めて差し入れにやってきた。場所は、ここあん大学早稲田サテライトキャンパス地下一階の学生ラウンジ「アンコンフォーミティ」。

渡良瀬エミ:(タッパーをテーブルに置き、申し訳なさそうに)あの、母が送ってくれたお店の筑前煮です。自宅で温めて持ってきたので、よろしければ食べてください。皆さん、研究でお忙しいでしょうから。

平泉慧:(ソファに深く座ったまま、目だけを動かして)ありがとう。でも、私にタッパーの蓋を開ける運動エネルギーを消費させないで。そこにある地層の化石に頼んでください。

花野環奈:(横の古本とゴミの山から顔を出す)化石じゃなく、化石の向こうにいる女性ね。この里芋の断面、美しいノジュールのようね。愛子ママの筑前煮、ここあん村で知らない人いないんじゃない?

エミ:えへへ。母はすごいです。どんなに離れて暮らしていても、私が筑前煮食べたいなって思ってると、電話がかかってきて。それに比べて私は、自分の生活だけで精一杯で、器が小さいなといつも落ち込むんです。

:それは、ハイゼンベルクの不確定性原理ね。

エミ:配膳? 不確定?

:そう。というか違うけど、そう。(頬に手を添えた絶対静止の姿勢で)量子の世界では、粒子の「運動量エネルギー」を正確に測ろうとするほど、その粒子の「位置」は不確定になってしまうの。

エミ:ええと……?

:つまり、環奈お願い。

環奈:自分で言い出しておいて。(エミのほうを向き)エミちゃんがパニックになって現在地を見失い、頭が真っ白になっているその状態は、あなたの内側でどれほど純粋で莫大な感情という運動量が激しく渦巻いているかを示す、何よりの物理的証拠ということよ。

:そう、極めてエレガントな現象。

エミ:……褒められているんでしょうか。

環奈:褒めちぎってるよ! エミちゃんのそのオロオロ、地質学でいえば「カンブリア爆発」そのものだよ!

エミ:乾物屋? 私がですか?

環奈:そう! 違うけど、そう。普段は静かな地層なのに、想定外の刺激が入った瞬間、焦り、戸惑い、涙目……無数の感情の多様性が一気に爆発して花開くじゃない! 愛子ママの「どんと構えた安定陸塊」とは違う、スリリングで最高に魅力的な断層帯だよ!

エミ:スリリング……でも、いっぱいいっぱいになると、完全にフリーズして何もできなくなっちゃうんです。

:それこそが、パウリの排他原理よ。

エミ:パウ、パウ、パウ……。

:一つの量子状態には、一つの電子しか入ることができない。あなたの心という極小のシステムは、パニックというただ一つの純粋な状態で完全に満たされ、他者の無駄なノイズが入り込む隙間を物理的にシャットアウトしているのよ。絶対的な純度を保つための、究極の省エネ防衛機構ね。

環奈:愛子ママの「すべてを受け入れる地層」もすごいけど、エミちゃんの「一つの感情で満たされる単一鉱物」も最高にロマンがあるよ! 男たちはその純度の高さと脆さに狂わされるんだから!

エミ:なんだか、スケールが大きすぎて、また頭が真っ白になってきました……。

:見事な不確定性ね。

環奈:じゃあ、私はこのカンブリア紀の化石をいただくね。(里芋を手でつまむ)

エミ:あ、お箸、出しますね……!

(幕)

作・千早亭小倉

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