【登場人物】
天野 光:ここあん高校の生徒。明るく快活な全肯定ガール。現在、同級生の神崎一樹へ提供するための小説のデータを必死に書き出している。
空野 円:ここあん大学哲学科講師。光の母。万物を「ただ、そうあるだけ」と捉える超越者。
【場面設定】
休日の午後。きさらぎタウンの天野家のリビング。 空野円はソファに座り、窓の外の雲を静かに眺めている。天野光はダイニングテーブルでノートを広げ、ボールペンの尻で頬をつつきながら頭を抱えている。

天野 光:あー、どうしよう。一樹に出す小説のデータ、このセリフだけどうしても決まらないや。
(光がペンを置き、背伸びをする)
光:ねえ、お母さん。この前、お母さんが電話口で言っていた言葉、小説のセリフで使ってもいいかな。
空野 円:(窓から視線を外さず)私の言葉ですか。私有財産ではありませんから、あなたが使うことを止める理由などないわね。
光:ありがとう! 主人公の女の子が、彼に向かって言うセリフなんだけど。「あなたと出会ってから、私の毎日がくららかになった」みたいな感じで使いたいなって。
円:(ゆっくりと視線を光に向ける)くららか、を。
光:うん! この前、お母さんが言っているのを聞いて、響きがすごく綺麗だなって思って。うららかでほがらかで、乾いた風が吹く感じでいいかなって?
円:……響きは、確かに柔らかいかもしれませんね。でも、その言葉をそのまま使ったら、主人公は彼に二度と会ってもらえないかもしれませんよ。
光:え? なんで? 穏やかな日々が続くみたいで、いいと思うんだけど。そういうのって、今風じゃないのかな、やっぱり。
円:今風の小説の話は知らないけれど、「くららか」は古語です。意味は「暗い様子」。
光:(目を見開く)え……。
円:つまり、主人公は彼に向かって「あなたと出会って、私のまわり暗くなった」と告白していることになるわね。まあ、愛は人によって異なるものだから。あたりが暗くなることもあるかもしれないし、それは決して……。
光:(慌ててノートの文字をボールペンで二重線で消す)だ、だめだよ! そんな展開、一樹に「論理的破綻だ!」って怒られる! いい雰囲気が全部壊れちゃうよ!
円:壊れるなら、いっそ壊れてしまえばいい。所詮、それまでだったということです。言葉という不確かな器に、永遠の形を求めようとするから、みな苦しくなるのですよ。
光:大丈夫、他の言葉を探すから! うーん、「気持ちが落ち着く」とか「前向きになれた」とか……。
(光は再びノートに向かい、真剣な顔でペンを走らせる)
円:「気持ちが落ち着く」……、それではいけないのかしらね?(再び窓の外に視線を戻し)……どちらにせよ、雲の形のように、気持ちはすぐに変わってしまうものだけれど。
(幕)
作・千早亭小倉




