【登場人物】
篠田 律:ここあん大学大学院生(分子系統学専攻)。世界のすべてを情報の分岐として捉える、データ至上主義の女性。最近、なぜか昭和の野球漫画にはまっている。
生地 こね子:パン屋「boulangerie KONEKO」店主。毎朝3時から仕込むパン作りに命を懸けているが、実家が米農家でお米も同じくらい愛しているという深い葛藤を抱える。
【場面設定】
昼下がり。生地こね子のパン屋。客足がいったん途切れ、静かな店内。カウンターの奥で、こね子が背を向け、こっそりと塩むすびを頬張ろうとしている。そこへ、ショップカードをじっと見つめながら篠田律が入ってくる。

篠田 律:店主の方。少々よろしいでしょうか。
生地 こね子:(驚いて振り返り、何かを背後に隠す)あ、はい。いらっしゃいませ。ご予約の方ですか?
律:いえ、パンを買いに来たのではなくて。
こね子:あ、営業の方ですか?
律:もっと重要な、根本的な構造を確認させてください。このショップカードに書かれた、お店とご店主のお名前。ローマ字表記の「KONEKO」と、ひらがなと漢字の混ざった「こね子」。このルーツは愛玩動物の「仔猫」でしょうか。それとも「パン生地を捏ねる」というパン職人の動作から来ているのでしょうか。
こね子:「こねこ」って何? そう言いたいのよね。上から読んでも下から読んでも「こねこ」ということについては、いいの?
律:その、ここあん村の村長みたいな部分は大丈夫です。私の頭の中の整理箱が散らかっているのは、全く異なる2つの意味が混在している状況によります。「にゃんこ」と「パン生地」、どちらの系統に分類すべきか、正しい由来を教えてください。
こね子:どちらでもいいじゃないですか。いま、休憩中ですし。
律:休憩中だからこそ、お聞きしているのです。
こね子:(ため息)うちのパンは発酵時間を限界まで見極めて、小麦本来の甘みを極限まで引き出しているんです。香ばしい皮とフワフワの生地を味わっていただければ、名前の意味なんて。あっ!
(こね子が背後に隠そうとした塩むすびが、律の足元に転がり落ちる。律の視線がそれに釘付けになる)
律:『ドカベン』で読んだばかりです。「1粒のお米には7人の神様がいる」と。いま、何人の神様が、このお店の床に……いや、違う。今日は違うの。これは、ご店主のお昼ですよね。パン屋のご店主が、パンではなく、おむすびを?
こね子:(あわてて塩むすびを拾う)ち、違います! これは、あくまで研究で。
律:違う?(眼鏡を押し上げる)海苔が美しく巻かれていますね。食べられるためにこさえられた、見事な三角の塩むすび。
こね子:こさえる……。あなた、何歳なの?(開き直る)そうよ、何がいけないんですか! 私だってね、毎朝3時に起きて、発酵具合をしつこく確かめて、最高のクロワッサンを焼いているの! 私のパンへの情熱は本物です! でも、実家が代々米農家で、炊きたての白飯も同じくらい大好きなんです! 本当の名前も、お米の子で「米子」になるはずだったんです!
律:よねこ?
こね子:そうよ。「よね」はひらがなで、「子」が漢字。でも、おじいちゃんが役所に出した出生届の字がものすごく汚くて。「よね」の字が「こね」って読まれちゃったんです。それで、戸籍上「こね子」に。
律:(息を呑む)そんな。どこか『男どアホウ甲子園』を思わせるエピ。
こね子:どアホウ? おじいちゃんのこと? 私はね、小さい頃から「にゃんこがお米を捏ねるの?」とかわけわからないことを言われて、私も、にゃんこの手でパン生地をこねるポーズがウケるもんだから、いい気になってそればっかりやってるうちに、なんだかパンづくりの魅力にはまっていて、だから今もパン作りには命を懸けています! そうでなきゃ、誰が自分のお店を持つまでがんばりますか! でもね、でも、いい? どうしてもお米への愛も捨てられなかったの! 本気でパンを愛しているからこそ、こうやってお店で隠れてお米を食べてるし、そういう自分に罪悪感があるのよ!
律:(こね子の長口上に圧倒されつつ、納得したように頷く)理解しました。つまり「小麦の遺伝子」と「お米の遺伝子」があなたの中で衝突しているのですね。それなら解決策は簡単です。なぜ「米粉パン」を作らないのですか。
こね子:は?
律:小麦とお米の融合です。米粉パンを焼けば、あなたの葛藤は数学的に打ち消され、完璧な調和が訪れます。
こね子:(目を見開いて叫ぶ)米粉パンの深さも知らずに、何を言うか!
律:(気圧されて後退り)な、何ですか。
こね子:米粉パンはね、米粉特有のモチモチ感と優しい甘みを引き出すために、全く別の技術と愛が必要な素晴らしい食べ物なんだよ! それをパンと米を足して2で割った、子どもの算数みたいに妥協するのは、小麦にも、お米にも、米粉パンにだって失礼でしょう!
律:(さらに気圧されて一歩引き、店の入口にぶつかる)あ、間違えました。分類の解釈を、私、篠田律、間違えました。
こね子:小麦の焦げた香ばしさとふんわりした立ち上がりも愛している! 噛むほどに甘みが広がるお米も愛している! 米粉パンの独自の魅力も愛そうとしている! 全部が独立した最高の存在だからこそ、混ぜて解決なんてできないんだよ! 私はね、一生、この愛の三角関係の中で苦しみ続けるんだ!
律:(突然、目を異様に輝かせる)なんと熱い生命の叫び!
こね子:え?
律:2項対立の安易な融合を拒絶し、両方の形質を極限まで保持しようとする姿! これは環境に適応しつつ、自己の核を絶対に譲らない「DNAの強靭な自己複製」です! エプロンにパンの粉をまといながら、懐に塩むすびを抱くその執念! 「北の狼南の虎」! 私はいま、猛烈に感動しています。『巨人の星』の伴宙太のように! 星よ〜。星ぃ〜。
こね子:は? なんで野球漫画ばかり。
律:この事象、「過剰な食愛による分類不能の多重適応個体」として私のデータベースに記録しておきます。ご店主のその葛藤、天上にひときわかがやく星よりも美しい。
(律はスマホを猛烈な勢いでタップし、満足げに深く頷いて、くるりと背を向けて店を出ていく。こね子、塩むすびを握りしめたまま、呆然と入り口を見つめる)
こね子:パン、1個も買わないんだ。
(ふと我に返り、首をかしげる)
こね子:というか、結局「にゃんこ」の話もどうでもよくなったのかしら。
(幕)
作・千早亭小倉




