【登場人物】
酔酔亭 馬楼: 伸び悩んでいる若き落語家(当時)。無類の酒好き。不器用だが情に厚い。そして、なぜか長髪。
糠森 ひな: 「代弾き」専門のピアニスト(当時)。怜悧で完璧主義だが、内面は繊細。
渡良瀬 愛子: 居酒屋「ここきた」のママ。愛称はラブちゃん。パワフルで世話好き。
米山 共子: ひなの師匠であるピアニスト。普段は辛辣だが、弟子への愛情は深い。
【場面設定】
今回は数年前の物語。平日の夜。活田地区にある居酒屋「ここきた」は、学生や常連客で賑わっている。カウンター席の隅で、馬楼が熱燗のぐい呑みを威勢よく呷り、ひなが静かにそれを見つめている。少し離れたテーブル席では、糠森ひなの師匠である米山共子がひとり、静かに杯を傾けながら二人の様子を伺っている。

(馬楼が、空になったぐい呑みをトン、とカウンターに置く)
酔酔亭 馬楼:くぅーっ! やっぱ酒はこうでなくっちゃな! ラブちゃん、おかわり! かしこまりぃ、って自分で言ってりゃ世話ないって? へへへ。
糠森 ひな:馬楼さん……髪の毛が伸びるのもそうだけど、少しペースが速すぎるんじゃないかしら? さっきから3杯目よ。お水、頼みましょうか。
馬楼:野暮なこと言うなよ、ひな。酒ってのはな、こう、乾いた喉に流し込む、この一瞬の……か、解放感が大事なんだ。落語でいう「マクラ」みたいなもんでな。こいつで客の心を……いや、俺の心をだな、がっちり掴まねえと始まらねえんだ。
ひな:(呆れたように、小さくため息をつき)マクラ、ね。音楽で言うなら、アタッカ(attacca)かしら。でも、あなたの今の飲み方は、ただのプレスティッシモ(prestissimo)よ。それも、フォルティッシモ(fortissimo)で鍵盤をめちゃくちゃに叩きつけているだけ。そんな演奏、誰も聴きたいとは思わないわ。
馬楼:ぷ、ぷれすてぃっしも…? ゲーム機かなにかで、そりゃ。芸ってのはな、遊びじゃねえんだよ。理屈でもねえ。この、喉ごしの……き、キレがだな……。
ひな:あなたの喉も、ピアノの弦と一緒。無理な奏法を続ければ、いつか切れてしまう。そうなったら、もう……もう……二度とあなたが高座で噛むのが聴けなくなるじゃない。
(少し離れたテーブル席で、米山共子がくすりと笑い、誰にも聞こえない声で呟く)
米山 共子:ふふ……ひなちゃんったら、ちゃんと分かっているじゃない。厳しくテンポを刻んだかと思えば、相手の呼吸に合わせてふっと間を取る。いいテンポ・ルバートよ。
(共子は厨房の方へ視線を送り、ラブちゃんに目配せをする。ラブちゃんは心得たとばかりに、にこやかに頷く)
馬楼:……ちぇっ。
ひな:……ふんっ。
(馬楼とひなの間に、少し気まずい沈黙が流れる。そこへ、お盆に山盛りの筑前煮を乗せたラブちゃんが、威勢よくやってくる)
渡良瀬 愛子:あらあら、またやってる! 若いっていいわねえ! 馬楼ちゃん、またひなちゃんに愛の説教されてるの?
馬楼:ち、違うよラブちゃん! これは芸を極めるための、真剣な議論でやんして……。
愛子:はいはい、芸談芸談。でも、ひなちゃんの言う通りよ。そんなガブ飲みしてたら、大事な喉がやけちゃうでしょ。ほら、うちの特製筑前煮!
(大盛りの筑前煮がふたりの前に置かれる)
ひな:え、これ……いつもの倍くらいある。
愛子:今日はサービスで大盛りよ! これ食べて、ちゃんとお水飲みなさい!
(どん、とカウンターに筑前煮の大皿が置かれる。愛子がひなの耳元にささやく。ひなが、はっとして振り返り、後ろの席の共子に気づく。共子は知らん顔)
ひな:ありがとうございます、ラブさん。
馬楼:ちぇっ。分かったよ。水、飲むよ。
ひな:(意外そうな顔で、馬楼を見つめ)え?
馬楼:いや、あれだ。こんだけ山盛りの筑前煮食べるにゃ、水が必要だろうってこと。それに……(ひなとは視線を合わせず、ぼそぼそと)お前のその……あの鬼婆のピアノのレッスン中みたいな真面目な顔見てると(共子の顔が引きつる。ひながおろおろする)、なんか、悪いことしてる気分になんだよ。テンポが……く、狂う。
ひな:……そう。それなら、ピアニストとしては本望だわ。あはは、あははは。
(ひなが、多少ひきつっているが、うれしそうな顔で笑う。その表情を見て、馬楼も照れくさそうに頭を掻く。共子は遠くの席で満足そうに微笑み、自分のグラスの酒に口を寄せる)
愛子:はい、お水もどうぞ! 恋も芸も、体が資本なんだからね! しっかり水分補給して、未来の家族会議続けなさいっ!
(ラブちゃんはそう言うと、ウインクをして、また厨房の喧騒の中へと戻っていく。馬楼は差し出された水を、少し悔しそうに、しかしどこか素直に、ゆっくりと口に運ぶのだった)
作・千早亭 小倉







