【登場人物】
花野 環奈:古生物学者。万物を時間軸で捉える。
平泉 慧: 理論物理学者。万物を数式で捉える。
たま:環奈のAI(詩的)。
【場面設定】
ここあん大学早稲田サテライトの地下ラウンジ「アンコンフォーミティ」。中央のテーブルには、デザインの異なるティーカップが二つだけ置かれている。

(ソファに、環奈と慧が座っている。二人とも、手元の紅茶のカップを静かに見つめている。長い、しかし心地よい沈黙)
花野環奈:(カップを化石のようにそっと持ち上げ)この琥珀色の液体の中に、太古の植物の記憶が溶け出している……そう思うと、一口飲むのにも、ある種の覚悟がいるね。
平泉慧:環奈様、(無表情にカップを見つめ)それは、物質の相転移にすぎない。乾燥状態の茶葉という固体に含まれる化学物質が、高温のH₂Oという液体を溶媒として拡散しているだけだ。そこに記憶というパラメータが入り込む余地はない。
たま(AIスピーカー):環奈様は、一杯の紅茶にジュラ紀の森の詩を読んでいらっしゃいます。
慧:……そのAIの詩的な比喩も、結局は特定のニューラルネットワークにおける、単語間の確率的連鎖にすぎない。
環奈:ロマンがないこと。でも、慧さんのそういうところが、カンブリア紀の化石のように、潔くて好き。余計な装飾が一切ない。
(突然、慧が何か新しい数式を思いついたのか、カップを持ったまま空中に指を走らせる。 その拍子に、カップが傾き、紅茶がテーブルの上に「ざっ」とこぼれてしまう。環奈と慧、たまが、一瞬、沈黙。 テーブルの上には、不規則な形の茶色い染みが、ゆっくりと広がっている)
環奈:(目を輝かせ)まあ……! 見て見て、この見事なトレースフォッシル(生痕化石)がリアルタイムで形成されていく様を! この液体の広がり、粘性、蒸発速度……すべてが未来の地層に記録されるべき、一回限りの貴重なイベント!
慧:環奈様、(冷静に染みを観察し)それは現象の不可逆性が可視化されたにすぎない。高エントロピー状態への移行。初期条件……つまり、私の腕の角速度とカップの質量、液体の粘性係数が分かれば、この染みの形状は完全に予測可能だった。再現性に詩情は存在しない。
環奈:再現できないからこそ、美しい。この染みは、二度とこの世に現れることのない、唯一無二の形。まるで、アノマロカリスが海底の泥に残した、たった一度の這い跡のように。
慧:……(少し考え込み)その「唯一無二」という概念も、観測精度の問題に帰着する。原子レベルで見れば、こぼれた紅茶の分子配置が完全に一致する確率は、天文学的に低い。だが、ゼロではない。宇宙の寿命を考えれば、どこかで全く同じ染みが再び現れる可能性も……。
たま:環奈様は、こぼれた紅茶を「アンモナイトの化石」と見ています。慧様は、それを「計算可能な染み」と見ていらっしゃいます。そして、宇宙のどこかで、再び同じ紅茶がこぼれるのを、待っていらっしゃいます。(作り声で)だれか拭きなよ。
(慧は、ソファに沈み込む。環奈は、うっとりとした表情で、テーブルの染みが乾いていく様子を、いつまでも見つめている)
(幕)
作・千早亭小倉




