
気象庁が今年も「梅雨入りしたとみられる」と、その一言に科学の誠実さを詰め込んで発表した日の午後。ここあん鉄道「大学前」駅のホームには、肌に粘つく生ぬるい空気が澱んでいた。鉄美鈴は、駅務室の窓から灰色の雲が低く垂れ込める空を見上げ、心の中で地団駄を踏んだ。
糊のきいたブラウスが変な角度で肌に張り付く不快感や、丹念に内巻きにしたボブヘアの毛先が、意志に反して外側にはねようとする反逆心などは、今の彼女にとっては些末な問題だった。美鈴がこの季節を忌み嫌う理由は、ただ一つ。鉄道のダイヤが、いとも容易く乱れるからだ。
定時運行こそ正義。一分の狂いもなく、計算され尽くした線と数字で構成されるダイヤグラムの芸術性こそ、彼女がこの仕事に魂を捧げる理由。それ故に、人間の力では制御不能な自然現象、とりわけ、気まぐれな雨は、美鈴にとって不倶戴天の敵といえた。
「本日も、ここあん鉄道をご利用いただき、ありがとうございます。まもなく、一番線に、各駅停車、3丁目駅行きが到着いたします。黄色い線の内側までお下がりください」
自分の声で録音されたアナウンスが響く。いつもの落ち着いたトーン。けれど、雨に濡れたホームの湿った空気の中では、その完璧な声もどこか上滑りしていくようだった。
駅務室の壁にずらりと並んだ監視モニターに、彼女は「鷹か⁉」というような視線を送っていた。ホームの端をふらつく学生、駆け込み乗車を試みるサラリーマン。すべてが潜在的な遅延要因であり、許しがたい蛮行だ。彼女の指先が、デスクに置かれた「ここあん鉄道1000系通勤電車写真集」を神経質に叩く。この癖のせいで、写真集の端は、折れてめくれ上がっている。
モニターの一画面が、改札口へと続く階段を映し出していた。画面を横切る通行人の姿を、美鈴の脳内システムが驚異的な速度で識別し、反射的にラベリングしていく。
歩きスマホでふらふらと進路を乱す学生は、台車の異常振動を思わせる「蛇行動」。傘の先端を水平に持って階段を駆け下りる危険なサラリーマンは「危険信号冒進」。改札機の手前で必ず立ち止まって鞄をまさぐる常連客は「ATS作動」。いつもポケットに手を突っ込み、斜に構えて歩く「カント不足」。確か、ここあん大生の岸辺義道。そして、義道の隣を歩く人物を捉えた瞬間、美鈴の思考回路に強烈なブレーキがかかった。
ここあん大学1年、遠藤薫子。彼女が岸辺に向けて放った屈託のない笑顔は、夜間の闇を切り裂くシールドビームのハイビームそのものだった。無音のモニター越しであるにもかかわらず、その眩しすぎる直撃光をまともに浴び、美鈴は思わず目を細めた。どんよりとした駅構内に差し込む一瞬の陽光。だが、その光が強烈であればあるほど、これから予想される運行混乱の影が、美鈴の心の中ではかえって色濃くなるのだった。
ぱら、ぱら。
駅の屋根を、乾いた音が叩き始めた。来たか。美鈴は身構える。屋根の無いホームにいた学生たちが、我先にと傘を広げ、色とりどりの円がそこかしこに生まれた。雨粒は、瞬く間にその密度を増し、コンクリを黒々と濡らしていく。この路線は、昔から大雨に弱いのだ。
「頼むから、持ちこたえて……」
美鈴の祈りも虚しく、運行情報を表示する大型ディスプレイの隅に、オレンジ色の小さな文字がぽつり、冷酷な宣告を灯した。
『大雨の影響により、一部路線で遅延が発生する可能性があります』
その文字列を睨みながら、美鈴は奥歯を噛みしめた。制帽の下の額に、じっとりと汗が滲む。彼女にとっての長い一日、梅雨との戦いの火蓋が、今、切って落とされたのだ。
オレンジ色の警告灯は、数分後には。赤色へとその輝きを変えた。大学前駅にほど近い克枯川の水位が、氾濫危険水位に達したとの報。それに伴い、ここあん鉄道は大学前駅からタウン駅間の上下線で、運転を見合わせることに。想定されているシナリオの中では、最悪のものだった。
運転見合わせのアナウンスが響くと、駅の空気が一変した。スマートフォンを睨む人、立ち尽くす人、駅員に詰め寄る人。人々から発せられる無数の問いかけと、やり場のない怒りが一つのうねりとなり、構内の隅々へと広がっていく。
そのうねりの最前線に、たった一人で立たされる感覚に美鈴が陥ったのも一瞬のこと、彼女は、先ほどまでの憂鬱が嘘のようにスッと背筋を伸ばした。その瞳には、恐怖でも絶望でもない、冷たいほどの闘志の光が宿っていた。天候という理不尽な敵によって蹂躙されたダイヤグラム。その美しい秩序を回復させるための戦いが、今始まったのだ。彼女にとって、これはもはや単なる「業務」ではなかった。
「Yさん、改札前の案内表示を『運転見合わせ』に切り替えてください。フォーマットは災害時規定の赤色、ゴシック体で。代替輸送に関する情報は、バス会社との連携が取れ次第、私が指示します」
「Tさん、ホームのお客様の誘導と安全確保を。特に、雨で滑りやすくなっている階段付近、注意してください」
矢継ぎ早に、しかし驚くほど冷静に同僚へ指示を飛ばすと、美鈴は迷いなくアナウンス用のマイクを握った。スイッチを入れると、彼女の声は、構内に渦巻くざわめきの中に一本の芯を通すように、凛として響き渡った。
「お客様に、運転見合わせについてお知らせいたします。現在、克枯川の水位上昇に伴う集中豪雨の影響により、ここあん鉄道は、本、大学前駅とタウン駅の間で、上下線ともに運転を見合わせております。復旧の目処は、現在のところ立っておりません。お客様には大変ご迷惑をおかけいたしますことを、深くお詫び申し上げます」
完璧なアナウンスだった。誰もがそう思った、次の瞬間までは。
「なお、現在一番線に停車中の列車は、昭和58年、TSS社製造のここあん鉄道1000系第3編成、デハ1003でございます。主電動機はT電機製造製、TD形806系。駆動方式は中空軸平行カルダン。搭載するVVVFインバータはH製作所製GTOサイリスタで、雨天時の粘着走行には特に定評がございます。車内でお待ちのお客様は、どうぞその力強い起動音と、芸術的な回生ブレーキの挙動にご注目を、そしてご安心を」
何人かの乗客が、ぽかんとしてスピーカーを見上げた。今の、情報は何だ? 美鈴にとっては、正確な情報を提供することによる、最大限の誠意であり、乗客を安心させるための配慮だった。だが、その意図が一般人に伝わるはずもない。
案の定、一人の血相を変えた中年男性が、駅務室のドアを叩くように開けて怒鳴り込んできた。
「おい! いつになったら動くんだ! 説明しろ!」
美鈴は椅子から静かに立ち上がると、まっすぐに男性に向き直った。
「申し訳ございません。ただいま、安全確保のため運転を見合わせております。当社の運行規定第七十二条、および内規第十五項に基づき、沿線河川の規定水位を超えた場合は、お客様の絶対的な安全を最優先するため、運転を見合わせることとなっております」
淀みなく諳んじられる条文に、男は一瞬たじろいだが、すぐに声を荒らげた。
「そんな規定、知るか! いつまで待たせる気だ! タクシー代を出せ!」
「大変恐縮ですが」と美鈴は、さらに続けた。「天災に起因する運行不能の場合、当社の旅客営業取扱基準規程第二百八十四条の定めにより、旅費の払い戻しはいたしますが、タクシーなど他の交通機関への振替、およびその費用負担は致しかねます。なにとぞ、ご理解いただけますよう、お願い申し上げます」
その、感情の介在を一切許さない、完璧なまでの「正しさ」と、制服を着た小柄な女性から発せられる隙のない圧力に、男性はぐうの音も出なかった。何か捨て台詞を吐いて去っていく背中を見送りながら、美鈴は静かに息をついた。
その時だった。駅務室のスピーカーから、指令室と交信する無線が入る。
『こちら指令室。大学前駅、および1003の渋沢運転士、応答願います』
その名前に、美鈴の肩が、ほんのわずかに、しかし確かに震えた。完璧なポーカーフェイスに、初めて微かな亀裂が入る。
やがてスピーカーから、あの憧れの声が響いた。
『こちら1003、渋沢。どうぞ』
低く、落ち着いていて、それでいて芯のある、テノールの響き。長年使い込まれたマスコンハンドルのように、滑らかで手に馴染むような感触さえある声だ。
美鈴の心臓が、ポイント切り替えの衝撃を受けた車両のように、ガタン、と大きく揺れた。全身の血が逆流し、耳が熱くなる。しかし、彼女は、運行規則書の条文のごとく、1ミリの表情の変化も見せまいとする。同僚たちに、この内なる動揺を悟られるわけにはいかなかった。プロフェッショナルとして、そして一人の鉄道ファンとして、憧れの存在が関わる現場で醜態を晒すことなど、断じて許されない。
「……こちら、大学前駅、鉄です。指令室、どうぞ」
努めて冷静に、事務的な声色で美鈴も応答する。声が上ずっていないか、マイクを持つ手に汗が滲んでいないか、彼女の全神経が自己を監視していた。
スピーカーから、指令室と渋沢運転士の冷静なやり取りが流れてくる。乗客の状況、車両の状態、そして今後の見通し。すべてが専門的で、無駄のない言葉の応酬だ。だが、美鈴の耳には、その会話の内容以上に、渋沢の声が持つリズムと音色が、まるで極上の音楽のように流れ込んでくる。
(ああ、渋沢さん……! なんて的確で、落ち着いた状況判断。まるで、視界不良の濃霧の中、長大編成の貨物列車を定刻通りに峠越えさせる熟練機関士のよう……!)
美鈴の脳内で、妄想の列車が静かに発車した。
(その声で、『出発進行!』と囁かれたい……いいえ、そうじゃない。『連結、よし!』と、私の存在を確かに確認してほしい……! 私という、この孤独で、少し古びた客車を、あなたの運転する力強い電気機関車、そう、EF66形あたりで、力強く牽引して……!)
妄想が東海道本線を全速力で駆け抜けていた、まさにその時。
「鉄さん? 顔、少し赤いですけど、大丈夫ですか?」
同僚のYに心配そうに声をかけられ、美鈴は我に返った。
「な、なんでもありません! 暑いだけです、この湿気のせいか、駅務室の換気システムがどうも……」
早口でまくし立て、ごまかす。制帽をぐっと深くかぶり直し、赤くなったであろう顔を隠した。
幸いなことに、状況は少しずつ好転し始めていた。雨脚が弱まり、指令室から、保線係員による線路の安全点検を開始するとの連絡が入る。運転再開の光が見えてきた。美鈴は再びマイクを握る。今度は、彼女の声に、先ほどにはなかった僅かな弾みが加わっていた。
「お客様に、運転再開の見通しについてお知らせいたします。ただいま、係員が線路および電気系統の安全確認を行っております。運転再開まで、今しばらくお待ちくださいませ。なお、当駅周辺の地盤は、太古の昔、多摩川の氾濫によって形成された沖積層であり、比較的軟弱なため、特に道床のつき固め状況については、慎重な点検が必要となります。地質学的にも、大変興味深いロケーションでございます」
またしても挟まれる、誰が興味を持つのかわからない豆知識。しかし、その声が、乗客たちの間に漂っていた絶望的な空気を、少しだけ和らげたのも事実だった。
やがて、点検終了の報が入り、ついに運転再開の指示が出た。駅全体に、安堵のため息と、ざわめきが広がる。
一番線に停車していた1000系が、静かに発車の準備を始める。美鈴は駅務室の窓から、運転台に座る渋沢の姿を捉えた。白い手袋をした指が、前方の信号を、計器類を、そして発車時刻を、きびきびと指差し確認する。その真剣な横顔と、一連の流れるような動作を、美鈴は息を詰めて見つめていた。
その瞬間、渋沢がふとこちらに顔を向けた。目が、合った。彼は、状況を乗り切った同僚への労いを示すように、小さく、しかし確かに会釈をした。
時間が、止まった。
美鈴の身体が、完全に硬直する。思考が停止し、心臓だけが暴れ馬のように跳ね回る。なんとか、お辞儀を返さなければ。しかし、彼女の身体は、油の切れたブリキのロボットのように、ぎこちなく、カクカクとしか動かなかった。
プァン、と短い警笛が鳴り、1000系第3編成は、H社製GTO‐VVVFインバータの独特な磁励音を誇らしげに響かせながら、滑るようにホームを離れていった。美鈴は、遠ざかっていく赤いテールランプを、まるで最終列車の発車を見送る旅人のように、ただ呆然と見つめていた。
嵐は、過ぎ去った。
駅には、少しずつ日常の時間が戻り始めていた。美鈴は、誰にも聞こえないほどの深呼吸を一つすると、乱れた制服の襟を正した。顔にはまだ、自分でもわかるほどの熱が残っている。
顔を上げると、カウンターでは既に同僚たちが、遅延証明書を求める乗客の列をスムーズに捌いているのが見えた。その手際の良さに、美鈴は小さく息をつく。
「……よしっ」
美鈴は、再びプロの顔に戻り、次の業務に取り掛かる。梅雨の日の、長く、そして短い戦いは終わった。しかし、彼女の胸の内には、憧れの運転士との束の間の邂逅が残した、温かなときめきが、梅雨の憂鬱を綺麗に洗い流していくのを、確かに感じていた。
了
作・千早亭小倉



