氷上静が大学院で哲学を学び、糠森ひなが音大への進学を控えていた、そんな地層2の雨の日のものがたり。

梅雨の合間の、自信なさげな光がここあん村の路地に射し込んでいた。その光は、迷子のようにも見えた。路地の奥に、レコードショップ「Lost & Found」はひっそりと、しかし誇りを持つように佇んでいた。店内は、外の頼りない光とは対照的に、暖色系のランプが古木で設えた棚を照らし、柔らかな光の濃淡を作り出している。棚にはレコードがずらりと、タイトルが記された細い背表紙をこちらに向けて並んでいた。それは、選ばれるのをただ待っているようでいて、どこか静かな威厳を感じさせる光景だった。一枚一枚が、過ぎ去った時代の物語を秘め、その沈黙は、選ばれし者だけがその物語に触れることを許されるかのような、静かな圧迫感すらあった。
糠森ひなは、カウンターの中でひとり、インナージャケットから取り出したレコード盤の縁を、長く細い指先でそっとなぞった。彼女がこの店でアルバイトを始めてまだ数ヶ月、来年には音楽大学への進学を控えている。自覚はないが、少しばかり世間からずれた雰囲気を持つひなは、この古びた空間と、時代遅れと言う人もいる、レコードから流れる音楽に、奇妙なほどの安らぎを覚えていた。彼女の指先が触れていたのは、ビル・エヴァンスの「Waltz for Debby」。針が落とされ、静寂を破ってピアノの音が溢れ出すと、ひなは無意識のうちに目を閉じた。音楽そのものに抱かれるように。
夕刻、店を突然の雨が襲った。都会の憂鬱を凝縮したような、重く湿った雨だった。閉店間際、客がいない店内に、ドアベルがからんころんという音を立てた。遠慮がちなようで、しかししっかりと、それは、ひなの耳に届いた。
「すみません」
美しく細い糸がまっすぐ伸びるような声と共に、ひとりの女性が店内に入ってきた。それがひなと氷上静との初めての出会いだった。雨に濡れた黒髪が、陶器のように白い首筋に張り付き、水の精が人の形を借りたかのようだった。怜悧な美貌、という言葉は、彼女のためにこそあるのだと、ひなは見惚れた。静は、服についた雫をハンカチに吸わせながら、数日前に忘れた傘を取りに来たのだと言う。
「あのどの傘でしょうか?」
ひなは少し戸惑い、尋ねた。店の隅には、忘れ物の傘が数本、持ち主を待ちくたびれたかのように寄り添って立てかけられていた。どれもこれも、主の気配を失い、単なる雨具という記号に成り下がっているように見えた。
静は少し間を置き、窓の外の雨を、遠い昔の記憶を辿るかのように見つめていた。いま歩いてこのレコード店に入ってきたばかりだというのに。その横顔には、微かな憂いが影を落としているようにひなには見えた。
「どなたかがお持ちになったのかしらね」
静は囁くように言った。その声は雨音に溶けてしまいそうだった。
「それは、それで良いのだけれど」
ひなは、カウンターの棚や、控室となっている奥の小部屋をひと通り確認し、置き傘にしている折り畳みの傘を、彼女に手渡した。ビニール傘は、この人には似合わない。そう直感したのだ。静はそれを受け取ると、「あなたはいいの?」と尋ね、ひながコクコク頷くのを確認して、礼を言うと、店を出て行った。雨の中に溶けて消えてしまうかのように。
その日から、静は時折、店を訪れるようになった。いつも決まって、雨の日だった。彼女は、ジャズやクラシックのレコードを熱心に、宝物でも探すかのように物色し、時にはひなに、その音楽についての深い知識を披露した。静の語る言葉は、哲学書の難解な一節のようでありながら、どこか心に響く詩のようでもあった。
「音楽は、失われた時を呼び戻す魔法」
やはり雨のある日、静はひなにそう言った。
「レコードの溝には、過去の記憶が、音の化石のように刻まれている。それを再生することで、私たちはもう一度、あの頃の自分に会える。時には、会いたくない自分にさえも」
ひなは、静の言葉に、抗いがたい魅力を感じていた。彼女自身、ピアニストを目指す身として、音楽の持つ力は理解しているつもりだった。しかし、静の言う「失われた時」とは、一体何なのだろう? それは、ひなにはまだ見ぬ、深い海の底のように思えた。
静は、自分の過去についてはほとんど語らなかった。大学院でドイツ哲学を学んでいること、そして、知性に惹かれ、議論に心の高ぶりを覚えること。彼女の言葉の端々から、暗号を解読するように、静という人間について推測するしかなかった。
ある雨の日、静はエリック・サティの「ジムノペディ」のレコードを手に取った。
「あなたなら、この曲を知ってるわね?」
静がひなに尋ねた。静の声は、しなやかな糸だ。雨音に混じって、艶を増す。
「ええ、少しだけ」
ひなは答えた。
「この曲は、喪失の音楽」
静はレコードのジャケットを、古い傷跡を確かめるように見つめて言った。
「何か大切なものを失った時に、人はこの曲を聴く。そして、失ったものを取り戻せないことを、静かに受け入れる」
その時、ひなは静の瞳の奥に、深い悲しみの色を見たような気がした。それは、底なしの井戸ではなく、深く澄んだ湖を覗き込んだような、かすかだが底がうかがえるそんな感覚だった。
「静さんは何か、大切なものを失くしたことがあるんですか?」
ひなは、気づけばそう尋ねていた。静は、しばらくの間、黙って窓の外を見ていた。雨は、二人の秘密を守るかのように、降り続いていた。
「ええ、ずっと昔にね」
静は、そう答えた。その声は、レコードの針が立てるかすかなノイズにかき消されそうなくらい、小さく、儚かった。
「でも、もう大丈夫。私は、音楽の中にそれを見つけたから」
静の指先が、そっとレコードのジャケットに触れた。壊れ物を扱うかのように、優しく、そして愛おしそうに。
ひなは、静の心の奥底にある、決して触れてはならない秘密に触れてしまったような気がして、それ以上何も聞くことができなかった。レコードから流れるサティの、シンプルで、どこまでも透明な旋律が、二人の間に、静かで、しかし確かな沈黙を作り出していた。雨音だけが、その沈黙を優しく、そして永遠に続くかのように包み込んでいた。
了
作・千早亭小倉




