【登場人物】
徒然士:ここあん大学日本文学科講師。完璧な言葉の形と様式美を信奉する。不都合なことがあると「ちょんまげ生えるわ」と嘆く。
おはぎはん:フリーライター。現場の熱量と生活の匂いを強い関西弁で話す。
まっちゃん:居酒屋「あちこち」の大将。不器用な大人たちを温かい料理で包み込む人情派。
【場面設定】
夕暮れ時の居酒屋「あちこち」。カウンター席で徒然士が熱燗の猪口を手にし、隣でおはぎはんがウーロン茶を飲んでいる。

徒然士:まっちゃん、お銚子をもう1本頼む。それにしても、最近の学生が書くレポートときたら……。
まっちゃん:あいよ、熱燗ね。書くだけましだよ。俺なんか、レポートなんて書いたことないよ。
徒然士:いや、あんなものなら書かないほうがましだ。普段から、「タイパ」だの「スマホ」だの、言葉を途中で切り落として恥じない。元の形が持つ意味と美しさを、時間短縮というみみっちい理由で捨て去っている。その気持ちが、態度が、レポートの端々に漏れ溢れているんだから。
おはぎはん:(お通しの枝豆を食べながら)先生、そない怒らんでもええやんか。言葉は生き物なんやから、使いやすいように短うなるのは当たり前の話やで。
徒然士:おお、おはぎくん。ライターを生業とする君までそんなことを言うのか。使いやすさのために本来の姿を忘れるなど、言語に対する裏切りだ。裏切りの街角だ。
(店のテレビ。野球中継の、大きくなった実況の声と歓声が店をひと巡りする)
おはぎはん:裏切りって、大げさな。先生、野球のボールかてそうですやん。
徒然士:野球?(テレビのほうをちらっと見る)野球がどうしたというのだ。
おはぎはん:ピッチャーが投げる球はボールですやん。でも、ストライクから外れた球のこともボールって呼ぶやんか。同じ言葉で紛らわしいと思えへん?
徒然士:ふうむ。言われてみれば、確かに。投げる道具の名詞と、判定用語が同じというのは、論理的ではないな。
おはぎはん:あれな、もともとは「アンフェア・ボール」って言うてたんやで。不公平な球、ちゅう意味や。
徒然士:ほう。不公平な球。
おはぎはん:昔の野球はな、ストライクとかボールとかのルールがのうて、バッターが自分の好きな球が来るまで何球でも見逃せたんや。
徒然士:何球でも? 何十球でもか? なんと牧歌的な。
おはぎはん:そうなんやて。そんでも、それやと、いつまでたっても試合が進まんから、審判が「ええ球は見逃さんと打て!」って怒ったんがストライクの始まりらしいねん。
徒然士:ストライク・ザ・ボールというわけか。打つべき良い球を見逃した打者へのペナルティがストライクだと。
おはぎはん:そや。そしたら今度は、ピッチャーが打たれへんような悪い球ばっかり投げるようになったんや。せやから、ピッチャーへのペナルティとして、ストライクゾーンから外れた球を「アンフェア・ボール」って呼ぶようになったんやて。
徒然士:なんと!(膝をポンと打つ)打者への警告がストライク、投手への警告がアンフェア・ボール。そこには完璧な秩序と均衡があるではないか。先人たちは実に正しいルールを作ったものだ。で、なぜそれがただのボールになったのだ。
おはぎはん:試合の中で何回もアンフェア・ボールって言うのが面倒臭なって、頭のアンフェアが省略されて、ただのボールになったんやて。
徒然士:面倒臭なって(持っていたお猪口をカウンターにガチャンと置く)とな!?
まっちゃん:先生、勘弁してくださいよ。この前も、お猪口を割ったばかりじゃないですか。
徒然士:割れてもいい! いや、よくないか。それよりも「ボール」だ。それでは、投げる道具の「球」と同じになってしまうではないか! 「ピッチャー投げました、ボール!」という実況は、「ピッチャーが球を投げた、これは球だ!」と言っているのと同じだ! 当たり前すぎる! ちょんまげ生えるわ!
おはぎはん:あはは! 先生、落ち着いて。みんな分かっとるから、別に誰も困ってへんで。
徒然士:困る! 私は困る。アンフェアという最も重要な意味を切り捨てておきながら、平然とゲームを続けているなど、欺瞞だ。歴史に対する重大な怠慢だぞ!
まっちゃん:まあまあ、先生。言葉の歴史がどうあれ、腹に入っちまえばみんな幸せの「球」をどうぞ。肉団子、熱いうちにどうぞ。
(まっちゃんが、湯気を立てる皿をカウンターに置く)
おはぎはん:うわ、めっちゃええ匂い! これ、うちの好みにドストライクやわ!
徒然士:おはぎくん! 君のそのストライクの使い方は、さっきの「打てという警告」の意味から完全に外れているぞ! 美味しそうなものへの賛辞として使うなど、それこそ意味の崩壊だ!
おはぎはん:ええやんか、美味しいんやから。先生も、冷めてアンフェア・ボールになる前に早よ食べや。
徒然士:そうはならん! 肉団子は肉団子。ただの肉団子だ!
まっちゃん:うちのフルカウント肉団子は1皿450円。ただじゃないから。
おはぎはん:おっちゃん、これなんでフルカウント肉団子って言うん?
まっちゃん:え、それはな。
徒然士:(肉団子を口に入れる)ぬっ……甘っ。なんだこれは。ぬぬっ、みたらし?
まっちゃん:5つの中に、アンフェア・ボールを3つ入れてあるから。
おはぎはん:ボールのほうが多いやんか。
(幕)
作・千早亭小倉






