みなさん、こんにちは。ここあん高校B組のショパンです。あ、本名は少し気恥ずかしいので、学校ではこう呼ばれています。
最近、私は自室のパソコンからネットの深海を回遊することに、ささやかな喜びを感じているのです。とりわけ、特定の厳格なルールだけで構築された「サイバー箱庭サイト」の観察には、時間を忘れて没頭してしまいます。
例えば、私が最近よく訪れる「尾鰭字」というサイトがあります。ここは完全にテキストの様式美だけで完結している世界なのですが、私にはこれが精密に組み立てられた「対位法」のスコアに見えるのです。住人たちは名著の一節を完璧なタイミングで引用し合います。一人が提示した主旋律としてのフレーズに対し、別の住人がすぐさま別の古典からの引用を対旋律として重ね合わせる。これは、バッハの楽曲における主題と対唱の関係そのものです。言葉の解釈のズレから生じる議論すら、私にとっては計算された「多声音楽」なのです。それぞれの旋律が独立した動きを見せながらも、縦の響きとしては決して破綻せず、一つの精緻な構成を維持しています。私はお気に入りの対話の構造を見つけると、愛用の万年筆で、この高級な革装丁の豆本にスコアを写すように記録しているのですよ。
また、一見するとそれとは真逆の、騒がしいお笑いの世界を模した「挙手!」というひな壇サイトも、音楽理論的には極めて高度な「管弦楽法」のサンプルです。ここで行われているリアルタイムの応酬は、古典派の厳格なソナタ形式と同等の美学に基づいています。一人の芸人さんが放つ突飛な「ボケ」は、楽曲における明確な「第1主題」に相当します。それに対して周囲の芸人さんたちがコンマ何秒の速さで一斉に「挙手!」をしてガヤを入れる行為は、主旋律の背後でリズムや色彩を補う木管楽器や金管楽器の「内声」の動きです。そして、場がカオスの極みに達した瞬間、MCの方が鋭い「ツッコミ」を入れます。これが、オーケストラにおけるすべての楽器が一斉に同じ和音を鳴らす「トゥッティ」であり、これによって全体の緊迫した不協和音が、鮮やかに協和音へと「解決」されるのです。どれほど泥臭く騒がしく見えても、そこには完璧なアンサンブルの楽式が存在しています。スベって場が凍りつく瞬間でさえ、私にとってはあえて挿入された現代音楽的な「総休止」に過ぎません。私は画面のこちら側という、絶対に安全な特等席から、この完璧なアンサンブルのログを解析して楽しんでいます。
しかし、臨場感のあるこれら二つの箱庭空間を観察し、豆本へと標本化していくうちに、私はふとある決定的な事実に気づいてしまいました。画面から視線を現実へと戻したとき、私が暮らすこの「ここあん村」もまた、これらと同等か、それ以上に極端な固有のルールで動く、巨大な箱庭空間なのではないか、と。
理性の結界に籠もる哲学講師の方も、泥臭い生命力を爆発させる大家さんも、論理をデータ化する研究者の方も、みなさんそれぞれが独自の偏執的なルール、つまり自分だけの強固な「調性」と「旋律」を頑なに主張し合っています。それぞれが異なる調性とテンポで同時に叫ぶため、アパートのゴミ出しのルールを巡る口論など、日常のあちこちで耳を覆いたくなるような「前衛的な不協和音」が発生します。ですが、これらを現実の生々しい揉め事として受け止めるのではなく、客席から総譜を見下ろすようなメタ的な視点に立つと、それらは不条理という名の壮大な交響曲として完璧に機能しているのです。
私はこの村の大人たちや同級生が引き起こすカオスを、決して否定しません。古典起因の調和に対する前衛的なノイズの介入として、大真面目に面白がっています。今日も村のあちこちで、見事なポリフォニーが構築されていることでしょう。私はこれからも、この安全な特等席からその美しい不協和音に満ちた箱庭を眺め、高級な革装丁の豆本に、丁寧な注釈をつけ続けていこうと思います。
ふむふむです。
文・ショパン




