地層3を構成する、主要三部作の第2作。長尺あらすじでご紹介します。
古いノートと、できそこないの吸血鬼
Scene 01 自室の回転椅子を揺らしながら、聖林太郎は編集ソフトのタイムラインを睨みつけていた。サークルの仲間とロマンチック・コメディを撮るはずが、感染症対策のリモート生活で活動は厳しく制限され、手元に残ったのは近所の公園で撮り溜めた自然の断片ばかりだった。蝉の抜け殻に池の亀、果ては二時間超におよぶ窓ガラスの結露の映像まである。「滴の長編ドキュメンタリーでも作る気か、俺は」と乾いた笑いを漏らしつつも、不要な部分を削ぎ落として繋ぐ作業には没頭できた。映画への熱意と知識だけを抱え込み、林太郎は延々と続くアリの行列の映像と格闘し続ける。
Scene 02 三年目の春を迎え、ここあん大学の片隅にある自主映画サークル「アーヌエヌエ」の部室にも僅かに活気が戻りつつあった。「結局、一本も撮らずに卒業かよ」と溜息をつく四年生の林太郎に、後輩で幹事長を引き継いだ幼馴染の恋流波陽(はる)は「そんなん知らんがな」と生返事を返す。そこへ他大学に通うもう一人の幼馴染、南ちづるが割り込んできた。「留年して来年撮るとか? どっちにしろ来年にはいないけど、私」とおどけるちづる。その瞳に一瞬だけ差した影を、はるは見逃さなかった。他の部員が入ってきたのを潮に、三人は部室を後にする。
Scene 03 部室を後にしようとした三人の前に、新入生の遠藤薫子が姿を現した。ちづるが「よろちづね」と挨拶すると、薫子は「わて、困りますがな」と軽妙に切り返し、独特の存在感を放つ。同期の岸辺義道からは「後で相談に乗ってほしい」と声をかけられ、幹事長のはるは鷹揚に応じた。初々しい新入生の登場に後ろ髪を引かれる林太郎とはるの背中を、ちづるが容赦なく叩いて廊下へと押し出す。「遠藤さぁん、まぁた来てねぇ」とはるの声音を真似てからかう彼女の悪ふざけをいなしながら、いつもの幼馴染トリオは高田馬場駅へ向かって歩き始めた。
Scene 04 駅へと向かう道すがら、ちづるは一人二役で映画クイズを繰り出し、林太郎は昨夜観た映画の批評を熱っぽく語り合っていた。いつもと変わらない賑やかな夕暮れ時、交差点の赤信号で立ち止まったその時だった。不意に隣のちづるの細い指が、はるの手に絡みついてくる。冷えきった指先に込められた微かな力は、いつもの気まぐれな悪ふざけではなく、まるで何かに縋りつく助けを求めているようだった。林太郎に悟られぬよう前を見つめるちづるの横顔を窺いながら、はるは高鳴る鼓動を抑え、その小さな手をそっと静かに握り返した。
Scene 05 ここあん村にあるはるの下宿に場所を移しても、林太郎の映画への執念は収まらなかった。「コロナで何もできなかったんだ。撮らまほし」と平安語混じりで情熱を訴える先輩に対し、はるはどこか醒めた態度を崩さない。二人が押し問答を続ける傍らで、本棚を勝手に物色していたちづるが背伸びをした途端、上の段にあった段ボール箱がバランスを崩して落下した。床一面に散乱した古い本や書類を片付けようと屈み込んだちづるの手が、埃をかぶった一冊の大学ノートを拾い上げる。ページの間から滑り落ちた一枚の紙片が、三人の運命を動かし始める。
Scene 06 散乱したノートから落ちた紙片を拾い上げた林太郎は、そこに記された「できそこないの吸血鬼・小春」という文字列に激しく心を奪われた。復讐を誓う元天才カメラマンの微笑など、荒唐無稽なノワール調のプロットに刻まれた作者名は「ハリー=ラブ」。はるの仕業かと疑うが、本人は身に覚えがないと撥ねつける。異様な熱気に呑まれた林太郎は「これを映画にする」と叫び、紙片を抱えて部屋を飛び出した。「私が主人公やってあげる!」とじゃれつきながら後を追うちづる。一人残されたはるは、夕暮れの下を並んで歩く二人の後ろ姿を窓辺から見つめ、胸の疼きを噛みしめていた。
Scene 07 その夜、はるのスマートフォンが鳴り響いた。電話口の林太郎は「いとをかし! 令和版の『小春ちゃんワンダーランド』を撮る!」と、平安語を交えながら一方的に熱狂をぶつけてくる。映画への執念を燃やす親友の勢いに呆れつつも、適当にいなしていたはるだったが、林太郎が口走った「ハリー=ラブ」という作者名と突拍子もない物語の題名が、頭の片隅に引っかかった。実家から持ち込んだ荷物に紛れ込んでいた古いノート。そして奇妙な筆名。脳裏に一つの可能性が閃いたはるは「掛け直すわ」と通話を切り、真実を確かめるべく次の番号を呼び出した。
Scene 08 はるが連絡を入れたのは、教育畑を歩み普段は堅物で通っている父、恋流波東彦だった。恐る恐るプロットについて尋ねると、酒気帯びの父は「ああ、小春ちゃんね!」と一転して上機嫌な声を弾ませた。四十年近く前、東彦自身が学生時代に書いたシナリオであり、実際に8ミリ映画として撮影までしたという。厳格な父親の意外すぎる若気の至りに、はるは驚きと可笑しさを隠せない。手元に残る決定稿のシナリオを送ってもらう約束を取り付け、通話は切れた。恋流波東彦だから「ハリー=ラブ」。珍妙な筆名の真相に気づき、はるは一人苦笑いを漏らす。
筑前煮とハッピーエンドの瞳
Scene 09 学生会館の一階ラウンジに、はる、林太郎、岸辺義道、そして新入生の薫子が集まった。テーブルには東彦から無事届いた『小春ちゃんワンダーランド~夢で逢えたら』の古びた決定稿が広げられている。「小春が俺を呼んでいる」と豪語する林太郎に対し、幹事長のはるは今年こそ自作を撮りたいと願っていた義道の動向を気にかけた。部員数が限られる中、二本の映画を同時進行させることへの不安を滲ませるはるに、薫子は「私ってすっごい戦力じゃないですかぁ」と無邪気に微笑む。寺の息子である義道も穏やかに頷き、複雑な制作体制が動き始めようとしていた。
Scene 10 部室が能楽研究会と交代で使えないためラウンジに合流したちづるは、「私が小春を演ればいいの?」と当然のように言い放った。薫子への対抗心を隠さず、はるの肩に唇を寄せて動揺させる奔放なちづるに、林太郎は苛立ち混じりの視線を向ける。配役も定まらぬまま先行きを案ずるはるが「この映画には少し因縁があって」と父との繋がりを匂わせると、隣の義道が真っ直ぐな眼差しを向けてきた。「俺、はると映画を撮りたいんだ」。突然の告白のような真剣な言葉に場は静まり返り、交錯する想いを抱えた五人の波乱に満ちた日々が静かに幕を開けた。
Scene 11 散らかり放題の自室で、林太郎は『小春ちゃんワンダーランド~夢で逢えたら』のシナリオと格闘していた。微笑やネジとテコの凸凹兄弟、敵役のフジマタキオカなど昭和の匂いが色濃い登場人物たちの行動原理は、令和の若者には不可解極まりない。「まずは登場人物を整理してみるか」と呟きつつ、古びた紙束とパソコンの間を行き来する。噛むだけで吸わない吸血鬼の小春や、恋人タダシの存在意義に頭を抱え、「小春ちゃんワンダーランド(改訂版)」と打っては消す作業が続いた。「直接、話を聞けば何かわかるかもしれない」。林太郎ははるの父・東彦との対談を決意する。
Scene 12 雨に煙るキャンパスを歩くはるの前に、相合傘の義道と薫子が姿を現した。急速に距離を縮める二人の空気に驚くはるへ、義道は「林太郎の映画を手伝うなら、俺もそっちを手伝おうと思って」と切り出す。自作を後回しにして撮影に協力するという義道の申し出は、人手不足のサークルにとって心強い援軍だった。通用門へ向かう帰り道、薫子から「そんなにはる先輩ってすごいの?」と問われた義道は、照れを隠すように答える。「映画の話してても、飯食ってても、相性ってあるじゃん」。雨が降りしきる中、若者たちの思惑が交錯していく。
Scene 13 「これ、長いよ。どこまであるんだ」と、はるは林太郎から届いた三千九百字ものメールに呆れ顔を晒した。『シナリオの問題点および修正案その1』と題された長文に対し、林太郎は「ちゃんと読んでくれよ」と詰め寄る。そこへ胸元の開いたニット姿のちづるが割り込み、スマホを奪い合ってはじゃれつき始めた。画面に映る哲学講師「静先生」の名を見つけてからかう二人を横目に、林太郎の意識は早くも東彦との対面へと向かっていた。はるから父親との面会を取り付ける約束を取り付け、迷走する映画作りの矛先は原作者へと向けられる。
Scene 14 部室で留守番をしていた薫子は、現れたはるの隣へすっと身を寄せた。壁に掲げられた「映画の話、厳禁!」の古びた張り紙をきっかけに、二人は自然と『小春ちゃん』の話題へと入り込む。荒唐無稽な作風にウディ・アレンの『スリーパー』を重ねる薫子の鋭い映画知識に、はるは思わず舌を巻いた。「いちゃついてる?」と疑いの目を向けながら二人の間に割り込んできたのは、またしてもちづるだった。楽しげに語り合うはると薫子の親密さに不満を露わにし、ちづるは「薫子ちゃん」という呼び方に過剰な噛みつきを見せるのだった。
Scene 15 はるの仲介により、ここあん村の居酒屋「ここきた」で東彦と林太郎の対面が実現した。名物である愛子ママ手作りの筑前煮を前に、林太郎はシナリオへの疑問を一気にぶつける。「ラストで主人公がティッシュになって飛ぶのは意味がわかりません」。熱弁を振るう林太郎に対し、目を閉じて聞いていた東彦は静かに告げた。「君は根本的に誤解している。この物語の主人公は小春ちゃんだ。小春ちゃんは、今でいうと萌えなんだよ」。昭和の堅物男から飛び出した予期せぬ単語に眩暈を覚えた林太郎は、混乱を鎮めるべくトイレへ逃げ込んだ。
Scene 16 林太郎がトイレに駆け込んだ後、カウンターに残された東彦と愛子ママは、四十年近く前の懐かしい記憶に浸っていた。東彦たちが「ここきた」で自主映画を撮っていた当時、まだ小学生だった愛子は、セロテープでフィルムを繋ぐ作業を手伝いたがって「あやねさん」に叱られた思い出を語る。熱心に議論を吹っ掛けてきた林太郎の姿に、愛子は「根っこの部分が東彦さんの時代の子に似ている。映画への情熱というか、バカさ加減というか」と笑いかけた。東彦も苦笑混じりに「映画を撮るなんていつの時代もバカな奴らのやることさ」と呟き、若き日の自分を重ね合わせるように杯を傾けた。
Scene 17 トイレの手洗い場で「萌え」という言葉に混乱していた林太郎は、壁に貼られたフライヤーの隙間に古びたポスターを見つけた。かすれた手書き文字で記された題名は『小春ちゃんワンダーランド』。席へ戻った林太郎がその興奮を伝えると、東彦は当時サークルの仲間が勢いで大量に印刷したのだと懐かしそうに目を細めた。「キョンキョンと明菜ちゃんが同じ号に出たミニコミ誌もあったわね」と愛子も昔話に花を咲かせる。学生街の片隅で四十年の時を超えて息づく自主映画の熱気に触れ、林太郎は大人の世界の深みと奇妙な巡り合わせに圧倒されていた。
Scene 18 脱線しかけた話を戻した林太郎に対し、東彦は「小春ちゃんは媒介であり、彼女自身が成長する必要はない」ときっぱり言い切った。ドロドロした関係を浄化するファンタジーであり、ラストで主人公がティッシュになって飛ぶのも人生の虚しさと軽やかさを表すだけで意味など求めなくてよいのだという。途中、愛子から看板アルバイトの「楓子ちゃん」が風邪で休みだと告げられ店内が落胆に包まれる一幕を挟みつつも、東彦は「小春ちゃんを中心に見れば違ったものが見える」と諭す。林太郎は釈然としないまま、彼女を軸に据えて読み直すことを誓った。
Scene 19 店を出た二人は、熟れたトマトのような赤いオーバーオールを着た酔客とすれ違う。東彦はその男が落語家の酔酔亭馬楼だと林太郎に教えた。駅への帰り道、林太郎が小春ちゃんのモデルを尋ねると、東彦は「サークルの当て書きだ」と明かす。好きな女性を脚本に登場させて出演の口実にする風習があり、敵役のフジマタキオカも実在の先輩だという。しかし凸凹兄弟の弟テコに話題が及ぶと、東彦は急に歯切れを悪くして口を閉ざした。掴みどころのない父親の意外な青春に触れながら、林太郎は東彦という男の底知れない人間味を実感していた。
Scene 20 自室に戻った林太郎は、ベッドの上でパソコンに向かい「小春ちゃん」の再構築に挑んだ。東彦の言葉通りに意味を排そうとするものの、令和を生きる林太郎の頭はどうしてもキャラクターの動機や伏線に意味を持たせようと空回りしてしまう。迷走する思考の最中、ふと「ハリー=ラブ」という奇妙な作者名が脳裏をよぎった。ハリーが東彦なら、ラブは恋流波の恋ではなく、居酒屋の「愛子ママ」のことではないのか。予期せぬ疑惑を振り払うように頭を激しく振り、林太郎は手探りのまま迷路のような脚本改訂へと没頭していった。
Scene 21 机に向かう林太郎のスマホに、ちづるから電話が入った。「萌え」以前の魅力とは何かと悩む林太郎が意見を求めると、ちづるは「ひじりんなりにやればいいんじゃない? どんな映画を作るのか見てみたいし」と素直なエールを返す。思いがけない温かい言葉に勇気づけられた林太郎は、柄にもなく「お前って可愛い声してるな」と口を滑らせてしまった。受話口の向こうで数秒の沈黙が流れた直後、「変態!」という怒声とともに一方的に通話は切断される。やらかして頭を抱える林太郎だったが、通話を終えた部屋でちづるもまた、一人静かに深い溜息を漏らしていた。
Scene 22 一週間後、居酒屋「ここきた」で再び東彦と向かい合った林太郎は、なおも昭和の価値観に翻弄されていた。小春が敵の屋敷で働く動機は猫の可愛さであり、ネジとテコの凸凹兄弟が微笑を助けるのは遺影を綺麗に撮ってもらった恩義のためだと東彦は熱っぽく語る。「どうでもいいようなことが一番大切だった」と語り、タダシをツンデレと解釈する東彦の言葉は、論理や整合性を求める林太郎を激しく混乱させた。萌えや伏線の意味をことごとく取り違える父親の勢いに圧倒され、林太郎は令和の感覚で筋を通そうとすること自体が間違いなのかもしれないと迷い始める。
Scene 23 トイレに立った東彦を見送り、一人取り残された林太郎は途方に暮れていた。その時、空いたグラスを下げに近づいてきた若い女性店員に目を奪われる。先日休んでいたアルバイトの少女だ。柔らかく束ねた黒髪と、静かで深い光を宿すその瞳に、林太郎の心臓は跳ね上がった。理屈を超えて周囲を惹きつける彼女の佇まいこそ、ずっと探していたヒロインそのものだった。この瞳を捉えれば、どんな物語も輝かしいハッピーエンドへと走り出す。「よ、ふうこちゃん」と東彦が声をかけた瞬間、林太郎は彼女を映画の主演に据えることを固く心に誓った。
新入生の正論と、夜明けのロマコメ
Scene 24 試験を終えたある日、部室に幼馴染トリオと義道、薫子が集められた。テーブルの中央には、林太郎が書き殴った「令和版 小春ちゃんワンダーランド(仮)」の模造紙が広げられている。東彦の感覚的な世界観に翻弄された挙句、ヤケクソになった林太郎が出した答えは突飛極まりないものだった。「小春ちゃんは宇宙人に改造され、悪の組織と戦う超能力を得るんだ!」。コントめいたSF設定に仲間たちが半ば呆れつつも、林太郎の破れかぶれの熱量に押し切られて受け入れかけたその時、新入生の薫子が鋭く鋭角に切り込んできた。
Scene 25 「ちょっと待ってください!」と薫子は身を乗り出し、林太郎へ矢継ぎ早の質問を浴びせかけた。「宇宙人に改造されるって痛くないんですか? 副作用は? 悪の組織の目的は何なんですか?」。思いつきで突っ走った林太郎は、あまりに真っ当な正論の前にぐうの音も出ない。感心するちづるや、事前に欠点を潰すべきだと薫子を支持する義道の視線を浴び、林太郎は冷や汗を流しながら「もう少し練り直す」と引き下がるしかなかった。新入生の放った容赦ない一撃によって、迷走する映画プロジェクトは再び振り出しへと引き戻された。
Scene 26 ミーティングを終えたキャンパスのベンチで、はるは一人考え込んでいた。そこへ腰を下ろしたちづるから「無理して作らなくてもいいんじゃない? はる、楽しそうじゃないもん」と不意を突かれる。父親の作品を再現することに縛られ、楽しむ心を失っていたことに気づかされたはるへ、彼女は「はるちんと、ひじりんと、楽しいことをいっぱいやりたいんだよ」と屈託なく笑いかけた。合流した林太郎とともに古びた映画館「夕日座」の洋風建築を見上げる中、ちづるの言葉を胸に、はるはある妙案を巡らせていた。
Scene 27 「ここきた」で東彦に改訂プロットを提示した林太郎だったが、「最後のシーンは要らない」とまたも渋い顔をされてしまう。迷走する空気を破るように、愛子ママがアルバイトの楓子を引き合わせた。飾らない礼儀正しさに好感を深めた林太郎は、愛子が耳元で囁いた「中野あやねさんの孫」という重大な情報を聞き流し、東彦へ楓子を主演の小春役に起用したいと熱弁を振るう。数秒ほど固まった東彦は、どこか遠い感慨を滲ませながら「いいんじゃないか。彼女には彼女の小春があるだろう」と静かに背中を押した。
Scene 28 帰り道、はるに駆け寄ってきた薫子は、鞄から『別冊 映画秘宝』を覗かせながら古い特撮映画への愛着を語り出した。『電送人間』などを引き合いに出し、東彦の荒唐無稽な原作にも通底する魅力を語る彼女は、核心を突くように切り込んでくる。「林太郎先輩の良さも、元のお話の良さも残ってなくないですか?」。新入生の鋭い指摘は、はる自身が抱えていた漠然とした焦燥感を的確に言語化した。あくまで林太郎の作品だと弁えつつも、はるは事態を好転させるため自ら一歩を踏み出す決意を固める。
Scene 29 はるが足を運んだのは、かつて親密な時を過ごした哲学講師、氷上静の書斎だった。知性と美貌を備え、いまや東彦の被災地支援日記『傍ら』に強い関心を寄せる静へ、はるは映画のロケ地として西欧風の自宅を提供してほしいと願い出る。静はその申し出をあっさり断るものの、代わりに氷上家が所有する古アパート「音巴里荘」の利用を提案した。電子機器を拒む彼女から管理人の連絡先が記された手書きのメモを受け取り、はるの手によって停滞していた映画制作が少しずつ前進し始める。
Scene 30 はるが撮影場所の確保に奔走していた頃、自室のベッドに寝転がる林太郎の脳裏には、居酒屋で出会った楓子の姿が鮮明に焼き付いていた。見つめているだけで物語が明るい方へと動き出すような、特別な光を宿した「ハッピーエンドの瞳」。それは単なる恋心ではなく、彼女の魅力を純粋に映像へ収めたいという創作者としての純粋な執念だった。「このプロットを、楓子のために書き換えよう」。手元の古びたシナリオを握りしめ、林太郎の心に迷いを吹き飛ばす新たな創作の炎が燃え上がった。
Scene 31 氷上静から紹介された古アパート「音巴里荘」を訪れた林太郎とはるは、森の中に佇む木造洋館の異様な存在感に息を呑んだ。敵役フジマタキオカの豪邸に申し分ないロケーションだ。ちづるが最近二人へ何か隠し事をしていると林太郎が気に揉む中、建物から現れたのはあの赤いオーバーオールの落語家、酔酔亭馬楼だった。「ネジ役にぴったりだ」と色めき立つ林太郎。さらに二人の前へ、植物を編み込んだ奇抜な衣装に枝の冠を戴く管理人・阿斗理恵が現れ、ここあん村の芸術家たちが集う空間の濃密さに圧倒されるのだった。
Scene 32 音巴里荘を後にした夕暮れの帰り道、ロケ地の収穫にもかかわらず林太郎の表情は曇っていた。SF設定への迷走や東彦の原作の扱いに苦悩する親友へ、はるが力強く言葉をかける。「だったら、好きなようにやればいいじゃん。俺は、林太郎のロマコメ、見てみたいけどな」。父親の意図や昭和の枠組みに縛られず、自分が一番面白いと思える物語を撮ればいい。ストレートな後押しによって心の霧が晴れた林太郎は「サンキュ、はる」と破顔した。楓子という最高のヒロインを輝かせるため、本来目指していたロマンチック・コメディへの原点回帰を誓う。
Scene 33 自室のパソコンに向かった林太郎は、憑き物が落ちたようにキーボードを叩き続けた。東彦の原案が持つ荒唐無稽さや、登場人物たちが抱える愛すべき欠陥の温もりを再確認した彼は、緊迫した状況を逆手に取ったドタバタ劇へと舵を切る。大好きなロマコメの要素を惜しみなく注ぎ込み、夜通し執筆に没頭した。「できた!」と声を上げた明け方、ついに聖林太郎版『新・小春ちゃんワンダーランド~夢で逢えたら』が完成した。遠回りした末に掴み取った確かな手応えに、林太郎は深い息を吐きながら、まだ見ぬフィルムの完成形を思い描いていた。
時給千円の噺家と、冷たい指先
Scene 34 喫茶店「小古庵」に陣取った林太郎は、神崎志乃ママからビールを受け取る酔酔亭馬楼と向かい合っていた。凸凹兄弟のネジ役に必要な独特の間を求め、林太郎は自主映画への出演を真正面から懇願する。気難しい顔で腕を組んでいた馬楼は、もったいぶった調子で口を開いた。「タダってわけにはいかねえな。コンビニの時給と同じでいいよ。今月も実入りがいいのはバイトの方なんだな、これが」。予想外のギャラ要求に呆気に取られつつも、林太郎は深々と頭を下げて出演を取り付ける。赤字続きの噺家の飄々とした快諾を得て、難関の配役が一つ埋まった。
Scene 35 「アーヌエヌエ」の部室に集まった仲間たちへ、林太郎は完成した改訂稿を配り遅れを詫びた。「気にすんなよ」と笑うはるや、協力を約束する薫子と義道たち。主演はサークル外の逸材を狙っていると明かして一同をずっこけさせつつも、制作陣の結束は強まっていく。その輪の中で、はるはちづるの異変を感じ取っていた。露出を抑えた大人しいワンピースに身を包み、いつもと様子が違う。「今日、元気なくないか?」と囁くはるへ、ちづるは「ほんと、はるちんはエッチだよね」と肩を叩いてみせるが、その掌にはいつもの痛快な張りが失われていた。
Scene 36 「ここきた」の仕込み時、林太郎は愛子ママへ楓子をヒロインに迎えたいと懇願した。「ハリー=ラブ」の筆名について愛子に由来を尋ねるが、当時は小学生だったと大笑いされ、盛大な勘違いに赤面させられる。そこへ現れたエプロン姿の楓子へ熱烈なオファーを伝えると、彼女は声を上げて笑い出した。「実は私の叔母も小春っていうんです」。若き日に女優を目指していた叔母との奇妙な縁を感じた楓子は、出演をあっさり快諾する。瞳に宿る輝きを確信した林太郎は、胸を躍らせて台本を手渡した。
Scene 37 店を出た林太郎は、階段で足を踏み外した酔酔亭馬楼を転がり落ちたところで慌てて介抱した。赤ら顔で酒臭い息を吐く馬楼は、自らが演じるネジの相棒について突拍子もない提案を持ちかけてくる。「ネジの弟のテコ役、コンビニで一緒にバイトしてる外国人の大男がいるんだ。からだがすげえでかくて面白いやつでさ」。階段を下りてきたばかりの酔客から飛び出した思わぬ怪演候補に呆気にとられつつも、落語家の飄々とした人脈によって、映画の凸凹コンビに新たなピースが転がり込んできた。
Scene 38 寺の庫裏で冷たい緑茶をすする義道の前で、薫子は座布団にちょこんと正座していた。自作を延期してまで林太郎の撮影監督を買って出た理由を問われた義道は、境内の緑を見つめて穏やかに語る。「はると一緒に撮りたいんだ。あいつなら林太郎の暴走もコントロールできる」。飄々としながらも的確な視座を持つはるへの深い信頼を明かす義道。「最終的には俺が面白くしてみせる」と意気込む彼へ、薫子は「ギドハラです」と軽口を叩きつつ座布団を投げつけ、二人は笑い合った。
Scene 39 微笑役に義道が決まり、寺の埃っぽい蔵がアジトのロケ地に決定。タダシ役には東彦が昔演じた因縁からはるが指名された。しかし最大の難関、敵役のフジマタキオカの配役は難航を極める。「あな無残」など古語を操る時代錯誤な役どころは、部員やOBからことごとく拒絶された。途方に暮れた林太郎の脳裏に、かつて東彦から投げかけられた「君には昭和の香りがする」という言葉が蘇る。自室の鏡の前に立ち、「あな無残」と呟いてみた林太郎は、自ら演じるべきかの激しい葛藤に悶絶していた。
Scene 40 いつもの幼馴染相談室で、林太郎はフジマタキオカを自ら演じる苦渋の決断を打ち明けた。「雰囲気あるよ」と笑うちづるたちに背中を押され、三人で頭を突き合わせて古語と現代語が入り混じる珍妙な台詞を練り上げていく。くだらない冗談で笑い転げる秘密基地の時間が、迷える林太郎の背中を押していた。だが作業の合間、ふと口を閉ざしたちづるの様子に林太郎が気づく。「ちづる、なんかあった?」。何気なく投げかけたその一言に、それまで部屋を満たしていた弛緩した空気が一瞬で張り詰めた。
Scene 41 張り詰めた沈黙を破り、ちづるは「私さ、卒業したら、結婚することにした」と唐突に告げた。驚愕して思考が停止する林太郎の傍らで、はるは見逃さなかった。平静を装うその唇が微かに震え、膝の上で握りしめた拳が白くなっていることを。相手は秘密だと笑う彼女は言った。「だから最後に、ひじりんとはるちんとで映画作るなんて最高じゃん。みんなでさ」。いつも林太郎をからかっていた「みんな」という言葉を、誰より切実に求めていたのは彼女だった。「よし、最高の映画を作ろう」。三人は涙を滲ませて誓い合った。
天袋のリールと、夕暮れの噛み痕
Scene 42 居酒屋「ここきた」のカウンターで、愛子ママは林太郎と楓子に驚くべき事実を明かした。楓子の祖母である中野あやねこそが、四十年前に東彦が制作した『小春ちゃんワンダーランド』のヒロイン、小春役を務めた当人だったという。当時あやねに夢中だった東彦が、彼女のために書き上げた物語だったのだ。店のトイレに残る古びたチラシを確かめに向かった楓子は、かすれた少女の絵に母親の面影を見出して息を呑む。四十年の歳月を超え、祖母と同じ役を孫が演じるという奇妙な巡り合わせに、林太郎の胸には期待と武者震いが込み上げていた。
Scene 43 自宅へ駆け戻った楓子は、祖母を引き寄せて「あやねさんが小春役だったの?」と興奮気味に問い質した。あやねは穏やかな笑みを浮かべ、「愛子ちゃんに聞いちゃったのね」と東彦の熱意に押されて学生映画のヒロインを務めた過去をあっさりと認める。東彦の手元には残っていないという幻のフィルムについて尋ねると、あやねは押し入れの天袋から埃をかぶった段ボール箱を抱えて戻ってきた。蓋を開けた箱の底、古い写真や手紙が眠る隙間から、8ミリフィルムのリールを収めたプラスチックケースが姿を現した。
Scene 44 ケースにはかすれた文字で表題が記されていた。当時すでに社会人だったあやねは、年下である東彦の熱意に負けて恥ずかしさに耐えながら演じた思い出を語る。東彦自身も恋人のタダシ役で出演し、自宅でのアフレコ中に弟が大声を上げて大慌てしたこと。そして上映後、「あやねさんにプレゼントしたいんです」と真っ赤な顔でこのフィルムを渡してくれたこと。宝物のように懐かしむあやねは、そのリールを楓子の手へと委ねた。「みんなに見せてさしあげたら?」。四十年の時を超え、二人の小春の手が固く結ばれた。
Scene 45 居酒屋「ここきた」のカウンターで、林太郎は東彦に『小春ちゃんワンダーランド』の副題である「夢で逢えたら」の真意を尋ねた。大瀧詠一やシリア・ポールの曲が好きだったから雰囲気でつけただけだと笑う東彦の背後から、泥酔した落語家の酔酔亭馬楼が千鳥足で割り込んでくる。「夢と言えば芝浜だよ、シ・バ・ハ・マ! また夢になるといけねえってやつだ!」。自信満々に語る馬楼を愛子ママが奥の席へと手際よく連れ戻すと、残された二人は顔を見合わせた。「芝浜は無いな」。東彦の乾いた呟きに、二人の笑い声が重なった。
Scene 46 その夜、東彦は珍しく泥酔するまで杯を重ねた。「あなたが映画にしようとしてくれるのが嬉しいのよ」と微笑む愛子ママの言葉を受け、林太郎は連絡を入れて駆けつけたはると共に、ぐでんぐでんになった父親を抱えて店を出た。階段を下りながら、林太郎はふと思い立って尋ねる。「お前っておじさんがいたりする?」。唐突な問いにはるは訝しみつつ、「親父の弟が一人ね。随分会ってないけど」と答えた。夜風が吹き抜ける通りで、東彦を乗せて走り去るタクシーを見送りながら、林太郎は奇妙な繋がりに思いを馳せていた。
Scene 47 寺の奥にある薄暗い蔵へ足を踏み入れたはるは、座布団の上に置かれた義道のノートパソコンに目を留めた。静かに再生された画面には、雨に濡れた石畳や揺れる蝋燭の炎、夕暮れの光を映す廊下など、息を呑むほど計算し尽くされた寺の風景が映し出されていた。林太郎の感情むき出しの動の表現に対し、世界を静謐に切り取る圧倒的な静の美学。自作を後回しにしてでも、林太郎の生み出す灼熱の物語を完璧な器として受け止めるという撮影監督の覚悟を悟り、はるは言葉もなく、ただ静かに画面を閉じて蔵の静寂に身を浸した。
Scene 48 茜色に染まる街並みを、林太郎とちづるは肩を並べて歩いていた。「いい映画に、なるのかな」。風に乗って届いたちづるの問いは、微かに震えていた。「俺が作るんだから、大丈夫だよ」。林太郎が力強く答えた瞬間、ちづるがふいに顔を寄せ、彼の肩へ小さく噛みついた。「痛っ、何すんだよ!」。驚く林太郎の前で、うっすらと涙を浮かべたちづるが眩しそうに笑う。「ふふ、小春ちゃんより先に、噛んじゃった」。駆け去っていく小さな背中を見送りながら、肩に残る痛みを抱きしめ、林太郎は夕空へ映画の成功を固く誓った。
了
作・千早亭小倉


アーヌエヌエの部員たち
聖林太郎

恋流波陽

南ちづる

岸辺義堂

遠藤薫子







