時は1983年。早稲田のシナリオ研究会に所属する大学生・恋流波東彦は、8ミリ映画の自主制作に情熱を燃やしていた。彼が書き上げたのは、吸血鬼の女の子が巻き起こすハチャメチャな物語。東彦は、密かに想いを寄せる年上の社会人・中野あやねにヒロインの「小春」を演じてほしいと思っている。これは、そんな東彦が、あやねを大学近くの喫茶店へと引っ張り出した短いスケッチ。不器用で純情な東彦の想いは、いたずら好きなあやねにすっかり見透かされている様子だが。若き日の東彦とあやねが織りなす青春の甘酸っぱい(?)一コマ。
【登場人物】
中野あやね:社会人。少し大人びていて、いたずら好き。
恋流波東彦:勉強そっちのけで、シナリオ書きと自主映画制作に熱中している大学生。
【場面設定】
早稲田大学近くの古びた喫茶店。テーブルの上には手書きの分厚い台本と、氷が溶けかけたレモンスカッシュが置かれている。

中野あやね:この台本の最後のほうに出てくる巨大なアイスクリームなんだけど。
恋流波東彦:え、大きすぎますかね? アイスクリームがだめとか?
あやね:何も言ってないよ、私。
東彦:(ホッとして)ああ、そこは僕のこだわりで、横山弟の純真さが一番出るシーンで。
あやね:いや、この横山弟君はいいんだけど、どうしてアイスクリームなのってこと。変身させるにしても、もっとかっこいいものにしてあげなよ。虎とか。
東彦:虎? 虎は自主映画に出ないでしょう。
あやね:それなら、巨大なアイスクリームだって出ないわよ。
東彦:あやねさん、わかってませんね。ホン、読んでくれたんですよね?
あやね:失礼しちゃうわね、読んだわよ。だから、ここあん村から早稲田くんだりまで出て来たんでしょう?
東彦:今日は池袋出て、都電ですか?
あやね:話、変わってるし。台本。台本読んだわよ。小春ちゃんにカプってされる、一番好きなものに変身するんでしょう。なんでかわからないけど。
東彦:僕も、そこはちょっと、ひらめきというか(自身無さげにレモンスカッシュのストローを指でいじる)。
あやね:レモンスカッシュのストローを指で丸めながら、台本を書いた本人に言われてもなあ。東彦君ってさ、自信家なのか、自信がないのか、いまいちわからないのよね。急におどおどするし。
(ストローをいじるのをやめる東彦。ストローが元の形に戻っていくのをじっと見ている。それに気づいたあやねだが、何も言わない)
東彦:変身は男のロマンですよ。微笑なんてティッシュですよ、ティッシュになって風に吹かれて飛んでいく。若気の至れり尽くせり、ですよ。
あやね:また変なこと言ってる。変って言えば、この小春ちゃんって吸血鬼、血を吸わないで首を噛むだけでしょ。カプって。吸わないんじゃ、吸血じゃないじゃない。
東彦:だって、血って生々しいし、僕の映画にはちょっと。
あやね:ロマンチストだもんね、東彦君。
東彦:ロマンチックコメディいいですよね。『グリース』見ました?
あやね:見た見た……って、また話、変わってるし。
東彦:で、小春ちゃんのカプですけど、あまがみなら、こう、放っておけない女の子の可愛らしさが出るというか。
あやね:可愛らしさねえ。東彦くんはこういうダメな子が好きなんだね。で、それを私に演れというわけだ。
東彦:これはあくまで映画の表現論としての……。
あやね:いいのよ理屈なんて。私だってダメな子って言えばダメな子だからね。東彦君がそういう子が好きだっていうなら、やってあげるわよ。
東彦:別に好きとかそういう話じゃなくて。
あやね:なに、必死に否定して。顔、赤いよ。
東彦:喫茶店の暖房が効きすぎてるんです。ちょんまげはえるわ、もう。
あやね:(立ち上がりかけた東彦を制して)座って。ねえ、ちょっと練習してみようよ、ここ(台本を指さす)。
東彦:練習って、それ第一稿だし、まだ早いですよ。
あやね:(あやねが身を乗り出し、向かいの席の東彦の首筋を軽く噛む)カプッ。
東彦:……痛っ。
あやね:あ、ごめん。本当に噛んじゃった。
東彦:(首筋を手でぬぐう)な、なんで本当に噛むんですか。台本でもフリだけでいいって書いてあるでしょう?
あやね:メソッド演技ってやつよ。『タクシードライバー』、デ・ニーロよ。実際にやってみないとわからないでしょ。私、だめな子だからさ。
東彦:だからさって、いきなり人の首を噛む社会人がどこにいるんですか。
あやね:ここにいるわよ。あ、ごめん。東彦くんの首、赤くなってる。変身できそう。
東彦:そ、それは噛まれたからじゃなくて、その、あやねさんが急に近づくから。
あやね:ふふ。じゃあ、次はティッシュになって飛んでいく練習しようか?
東彦:いや、それはメソッド演技でも無理でしょう。
あやね:わかんないわよ。
(幕)
作・千早亭小倉
![[公式]千早亭小倉の世界 | ここあん村案内所](https://atelier-cocoan.com/wp-content/uploads/2026/04/20260410_125128.jpg)


