【登場人物】
糠森 ひな:東北のオーケストラでソリストとして活躍するピアニスト。完璧主義ゆえに、耳と指を過剰防衛している。両手には薄手のシルク手袋。
郷田 剛:克枯町商店街会長であり、スーパー「人生」のオーナー。声が大きく自己顕示欲が強い。
渡良瀬 愛子:居酒屋「ここきた」のママ。愛称はラブちゃん。すべてを受け入れる底なしの包容力を持つ。
【場面設定】
居酒屋「ここきた」のカウンター席にひな。名物の筑前煮を食べている。 隣にたまたま居合わせた郷田。すでに酒が回っている。カウンターの中には愛子。

糠森ひな:(筑前煮を一口食べて)はぁ、美味しいぃぃぃ。ここの筑前煮は、出汁の旨味のバランスがバッハの平均律のように完璧。ただ、たぁだ、やっぱりこの店の喧騒だけは耳が痛い(シルクの手袋をした手で、軽く耳を押さえる)。
郷田剛:(突然、信じられないほど大きな声で)ガハハハハ!
ひな:(ビクッとして耳を塞ぐ)うわっ。(心の声)スーパー「人生」の郷田会長。さっきから声が大きくて無神経な話ばっかり。
郷田:(カウンターをドンドン叩きながら)ラブちゃん! 酒だ酒! おかわりちょ!
ひな:えっ?(箸を持つ手が止まる)
郷田:早くしてくれよ、ラブちゃーん!
ひな:(目を見開き、郷田を凝視する)今の……声……?
(舞台照明が少し変わり、ひなにスポットライト。ひなの脳内モノローグ)
ひな(M):何……これ……? 今の「おかわりちょ」の「ちょ」の音。基準ピッチA=442ヘルツに対して、寸分の狂いもない、完璧な「ド#」……! しかも、咽頭腔が広く開いた、豊潤すぎる低次の倍音成分!
郷田:あー、今日、特売のネギを並べすぎて腰が痛てえわー。
ひな:(息をのむ)ツヤがある。なんてベルベットのような声。骨格が……骨格が完全に、1970年代製の最高級グランドピアノ「スタインウェイ」と同じ響きをしている……!
郷田:(愛子にガサツに絡む)おいラブちゃん、この筑前煮、ごぼうがデカすぎるぞ! お口に入るかな、あ~ん?
ひな:(音楽的な喜悦に打ち震え、胸に手を当てる)「あ~ん」の響きの中に、第一倍音、第三倍音、さらには通常は聴き取れない第十一倍音のフラジオレット(超高音の美しい響き)が、満天の星空のように煌めいている……! 第九の合唱のソリストでも、ここまで純度の高い「あ~ん」は出せないわ……!
郷田:(ビールをごくごく飲み、ゲップをする)ゲプッ。
ひな:っ……!!(あまりの衝撃に椅子から立ち上がる)
ひな(M):完璧なポリフォニー(多重音声)! ゲップの中に、まさかの「ミ・ソ・シ」の短三和音が構成されていた! 悲哀のコード進行! 会長、背中でショパンを語っているの!?
郷田:(ひなの熱い視線に気づき、怪訝な顔をする)あ? ああ、あああ、ひなちゃんだ。どうした? 人の顔ジロジロ見て。ここあん村で銅像になろうかっていう、このワシの顔に何か付いてるか? おぅ?
ひな:(完全に魅了された瞳で)いえ、素晴らしいトニック(主音)です……。
郷田:トニック? あぁ、頭に振るやつな。ここあん村で、トニックシャンプーを初めて使った男と言われているからな、ワシは! な、ラブちゃん。ガハハハ!
ひな:(膝から崩れ落ちそうになりながら)あぁ……! 今の「ガハハハ」のリズム、完全にストラヴィンスキーの『春の祭典』の変拍子……! 原始的な生命の躍動を感じるわ……!
郷田:ラブちゃん、この有名ピアニストのお嬢ちゃん、なんか変だぞ! 変な酒でも飲ませたじゃねえのか? おい!
ひな:っ……(ハッと我に返り、自分のバッグから五線譜のノートとペンを引っ張り出す)
郷田:何書いてんだよ。
ひな:(狂ったように楽譜を書き殴りながら)喋らないで! いま、あなたの声のヘルツを五線譜にサンプリングしているの! そのまま! そのまま大声で喋り続けて!!
郷田:ひえっ、怖い怖い! ラブちゃん、お会計! もう帰るわ!
ひな:待って! 行かないで! 会長の「もう帰るわ!」が、私の心に永遠のリフレインを刻む!
郷田:(怯えながら脱兎のごとく店を飛び出す)逃げろ!
ひな:ああっ、私のスタインウェイ様!(郷田が去った扉を見つめ、涙ぐむ)
愛子:(穏やかな笑顔で、ひなの前に筑前煮の小鉢を置く)はい、筑前煮のおかわり。
ひな:あ、ありがとうございます。(ガックリ肩を落とし、お箸を持つ)
愛子:(ぽつりと)郷田さん、声は大きくて少し……、いや、かなりがさつだけど、良い声してるでしょ?
ひな:(ガタッと立ち上がり、愛子を凝視する)ラブさん、もしかして、あなたも「聴こえる」んですね!?
(ひなが愛子の手を固く握りしめる)
(幕)
作・千早亭小倉
![[公式]箱庭の語り部 千早亭小倉](https://atelier-cocoan.com/wp-content/uploads/2026/04/20260410_125128.jpg)




