【登場人物】
宗方 奈落:BAR「ボストーク」女店主。残酷なまでの深い沈黙と、本質を抉る短い言葉のみを提供する。
武功:作家。虚勢を張った無頼な口調をとうに捨て去り、人生の敗北や空虚さを静かに見つめる。
菜箸 かな:フリーランスの翻訳家。しなやかな知性を持ち、文学の底流にある意図を正確に読み解く。
【場面設定】
ボストー区の外れに位置するBAR「ボストーク」。店内には古い木材と、微かなアルコールの匂いが漂っている。カウンターの端と端に、武功と菜箸かなが座っている。

(宗方奈落が、磨き終えたカクテルグラスを武功の前に滑らせる。武功は視線を奈落に向ける)
武功:頼んだ覚えはないが。
奈落:(無言で、別のグラスを布で拭き続ける)
武功:マティーニか?
(武功はグラスを手に取り、一口飲む。喉の奥に鋭い刺激が走る)
武功:熱っ。
(武功は、表情を戻し、興味深げに、グラスに目をやる)
武功:ベルモット抜きか? にしても。
奈落:(無言)
武功:ウオツカがジンと半々といったところ……。(少し思案顔。グラスの縁を指でなぞる)カポーティか。飲んだのは初めてだ。
菜箸かな:(手元の文庫本から顔を上げ、武功を見る)私も見たのは初めてです。
武功:翻訳家のアンテナには、引っかかる酒だろうな。
かな:「白い天使」という無垢で甘やかな名前に隠された、純度100パーセントの暴力的なアルコール。ホリー・ゴライトリーの、痛々しいほどの二面性が込められていました?
武功:ああ。オードリーが作り上げた幻想のせいで、甘やかな都会のおとぎ話だと思われがちだが。原作のホリーは迷子だ。自分の過去から逃げ、孤独を覆い隠すためにマシンガンのように嘘を並べて喋り続ける。あれは、都会の冷たいアスファルトの上でどうにか息を繋ごうとする、野良猫の生存記録だよ。
かな:カポーティの文体も、あの作品を境に劇的に変わったと言われますよね。初期の過剰な装飾を徹底的に削ぎ落とし、冷徹なまでの客観性を手に入れた。感情を直接説明するのではなく、ただ乾いた事実と行動を並べる。その削ぎ落とされた空白が、あの作品では、かえってホリーの抱える絶対的な「居場所のなさ」を浮き彫りにした。
(奈落が、かなの前にロックグラスを出す。武功同様に、透明な液体に、かなのグラスには氷が浮かべられている。かなが無言で頭を下げる)
武功:無駄を削ぎ落とした果てに残る、人間のどうしようもない空虚さ。70年近くあとを生きている俺が、本質的に同じものを探しているとしたら、笑うしかないが。誰もが等しく抱えている飢えと敗北感。あの物語の結末には血の匂いがする。
かな:飾らない絶望ですね。安易な救いを用意しないからこそ、彼女がすべてを置いて消えたことが、今でも鋭く胸を刺す。
(武功がカクテルグラスを持ち上げ、残りの液体を静かに喉へ流し込む)
武功:天使の羽ばたきは、見た目以上に重いな。
(奈落が、無言でかなのロックグラスを一瞥する)
奈落:氷が溶ける前に飲みな。味がぼやける。
武功:違いない。
(かなが微かに微笑み、自分のグラスに口を付ける。一口飲み込んだ、その瞬間――)
かな:ニッ! ユニ、ォシッ……!
(度数の高いアルコールが暴力的に喉を焼き、かなは思わず顔をしかめて激しく咽る。目元に生理的な涙がにじむ。完璧な翻訳家のペルソナが、物理的なアルコールの熱の前に一瞬で崩れ去る)
奈落:(表情を変えず、無言でチェイサーの水をかなの前に滑らせる)
かな:(チェイサーを一口飲み、慌てて口元を拭う)ごめんなさい。むせてしまって。
武功:(その様子を横目で見て、鼻で笑う)活字の中の野良猫と、本物の泥水は違ったか。
かな:(まだ少し目を潤ませながら、取り繕うように背筋を伸ばす)ええ。想像以上に、乱暴な味ですね。
武功:あの日本人の名前で咽てたな。器用なことだ。
(かなの人間臭い隙を見て、武功は小さく息を吐いて笑う。奈落は無言でグラスを拭き続ける。店内の静寂が、先ほどよりも少しだけ温度を持ったように感じられる)
(了)
作・千早亭小倉






