【登場人物】
恋流波 東彦:フリーランス。永遠のモラトリアム青年を自認するポンコツおじさん。恋流波陽の父。
徒 然士:文芸評論家。完璧な様式美を信奉するが、東彦の飄々とした態度によく調子を狂わされる。
【場面設定】
居酒屋「あちこち」。カウンター席。東彦がホッピーのグラスを傾け、徒然士が熱燗の猪口を手にしている。

恋流波東彦:そういえば、ハルキの新作、出たね。
徒然士:ああ、出ましたね。東彦さん、ハルキストでしたか?
東彦:大学生の頃だから、40年くらい前は、よく読んだね。新刊が出るのを楽しみにして、読み終わりそうになると、「ああ、読み終わっちゃうよ〜」みたいな感じで、ゆっくり読んだりして。本に比べたら、映画や音楽って、こっちの都合とは無関係に同じ速度で流れていくよね。
徒然士:ごもっとも。映像メディアは我々に受動的な時間の消費を強要する。文学者からしたら、実に野暮なシステムだ。まあ、最近の学生の中には、早送りして見るのもいるようだが。
東彦:タイパね。まあ、それは、私とは違う世界の話だね。そう考えると、先生が言う、受動的ななんちゃら。
徒然士:受動的な時間の消費の強要! それくら覚えられませんか。
東彦:(柳に風)そうそう、その時間のなんちゃらね。自分の足で踏みしめる地面とか、指先で触れる紙のページは、違う。すべて自分の手の中に速度があるんだよね。最近よくそう思うんだ。
徒然士:(猪口を置き、感心したように頷く)東彦さん。今日は珍しく、あなたの口から含蓄のある言葉が出ましたな。まったく、その通りですよ。活字を追う速度は、我々自身が決定できる特権に他ならない。
東彦:さっきのハルキの本の話じゃないけど、好きな本の終盤、残りのページが指の感触で薄くなってきたと気づいたときさ。ページをめくる手が、自然と重くなるんだよね。
徒然士:おお、それは、見事な表現。
東彦:1文字ずつ噛みしめるように追って、物語の終わりを少しでも先へ延ばそうとあがく。流れていってしまう時間に対して、自らの意思でブレーキをかけ、愛おしい瞬間に長くとどまる。終わりたくないと願うその呼吸こそが、自分の手で時間を刻んでいる証なのかもしれないね。
徒然士:愛おしい瞬間に長くとどまる。(感動したような風情)素晴らしい! 物語の終焉に対する、読者の実存的な抵抗運動だ。紙の厚みという物理的な制約が、精神的な渇望と見事にリンクしている。完璧な様式美だ!
東彦:いや、単に加齢で文字がかすんでるのと、最近は、面白くてもつまらなくても本を開くとすぐ眠くなっちゃうからなんだけどね。
徒然士:(目を見開く)は!?
東彦:老眼という事実にはそっと目をつぶって、「愛おしい時間にブレーキをかけている」ってことにしておきたいんだよ。詩的な気分になれるだろ。
徒然士:私の文学的共感を、単なる水晶体の老化と睡眠欲に還元するんですか。返せ、私の知的な感嘆を返したまえ。あ、失礼、つい。返してください。
東彦:別にいいよ、タメ口で。私のほうがひと回り上だけれど。あと、坂道を登るときも同じさ。スーパー「人生」で酒とつまみを買って、はらほれ坂を登り切る直前、あえて歩幅を小さくする。
徒然士:またか。今度は騙されませんよ。
東彦:あそこの空に広がる夕焼け、いいよねえ。だけど、あの坂の魅力はそこじゃない。登りきった瞬間に眼下に広がる景色。それをすぐには受け取らず、その手前で、胸いっぱいに期待を膨らませるための時間を作る。どうだい、いい感じだろ。
徒然士:ふうむ。目的地の達成を意図的に遅延させ、過程の美学を極大化する。谷崎の陰翳礼讃にも通じる、奥ゆかしいアプローチだ。(ぐっと言葉を飲み込み)悔しいが、認めます、その炯眼。
東彦:単に息が上がって、足が前に出なくなっているだけなんだけどね。ただの運動不足による息切れ。
徒然士:また? え、また? どうしてあなたは自らの手で美学の骨組みをへし折る!
東彦:あとさ、空から舞い降りて地面に触れる瞬間、膝を折って身体全体で衝撃を受け止める。そのときに感じる痛みが、自分が確かに着地したという感覚を強く意識させるんだよね。
徒然士:重力との対話。大地と肉体が衝突する瞬間の、生の実感。よし、今度こそ美しい着地だ。
東彦:なあんて、アクション映画の主人公みたいなことを言ってみたものの。
徒然士:うっ、言ってみたものの?
東彦:私のような凡人のおじさんになると、ちょっとした段差から降りただけで膝にピキッと痛みが走るんだよ。関節の悲鳴で重力と着地を実感するなんて、人間の身体ってのは思いのほか不器用で、そして正直にできているよね。そもそも、空から舞い降りる? 私が?(大笑い)
徒然士:ううぬ(憤然)ちょんまげ生えるわ! なぜあなたの詩的な表現は、すべて初老の健康不安の隠れ蓑に着地するのだ。私の情緒が休まる暇がないではないか。
東彦:あははは。そう思いながら、今夜もこうしてよく冷えたホッピーをちびちびと飲んでいるのさ。ナカとソトのリズムを楽しみながら、グラスの中で時間を引き延ばしているんだ。そう、適当に。
徒然士:適当と言うな。せめて発酵のロマンくらいに修飾したまえ。
東彦:先生の、「したまえ!」、嫌いじゃないな。
(幕)
作・千早亭小倉





