【登場人物】
恋流波 東彦:60代半ばのフリーランス。日常の些細なものに「顔」を見つけるシミュラクラ現象の達人(?)。
新浪 いちご:18歳の元天才研究員。世界のすべてをデータと変数で処理する「論理の孤島」。
鈴木 美桜:22歳のここあん図書館司書。悪気はないが抜けている、素朴で大雑把な妹キャラ。
【場面設定】
昼下がりの喫茶「小古庵」。カウンター席で、恋流波東彦が運ばれてきたばかりのカツカレーを前に、スマートフォンで写真を撮っている。隣の席には新浪いちごが座り、静かに白湯を飲んでいる。

恋流波東彦:(スマートフォンの画面を覗き込みながら)いい顔。カレーの湖面にできた気泡の目。そして、福神漬けの口。これは、「海」のママに似てるな。
新浪いちご:(白湯のカップを置き、東彦の皿を見る)それはただの食品の……気泡はガスですから、食品ではなく物質の配列です。人間の脳が視覚処理において、3つの点を顔として誤認識しただけです。
東彦:誤認識なんて言うなよ。ほら、見てみて。福神漬けの赤が化粧に失敗した口元に見えて、カツの脂が、それを拭おうとするハンカチに見えない? 海ママの人生の悲哀が見えるよ。
いちご:無意味です。物質のランダムな配置に感情のデータを投影しても、栄養バランスや摂取カロリーが変わるわけではありません。
東彦:食品学の話じゃないんだけどな。じゃあ、こうしたらどうだ。(スプーンの先で福神漬けの向きを変える)ほら、こうするとちょっと怒っているように見えない?
いちご:福神漬けの座標を20度ほど反時計回りに移動させただけで、あなたの認知する感情モデルが「哀愁」から「怒り」へ遷移したということですか。
東彦:そうそう。プンプン怒ってる。化粧に失敗して、海ママがおかんむりだ。
いちご:(東彦の皿をじっと見つめ、瞬きを止める)確かに、人間の表情筋における哀愁の弛緩から、口輪筋の急激な緊張へと至る、一連の幾何学構造が形成されています。(少し大声に)待ってください!
東彦:びっくりした。何、なに?
いちご:たった3つの座標変数を動かすだけで、人間の複雑な感情のパラメータを網羅的に再現できるというのですか?
東彦:大げさだなあ。ただのカツカレーと福神漬けだよ。気泡にいたっては、ただのガスなんだろ?
いちご:ミシュラクラ現象、恐るべし。これは極めて効率的な情報圧縮法なのかもしれません。3つの点の空間配置だけであらゆる感情のパターンを定義できるなら、言語による情報伝達を完全に代替できるのではないでしょうか。検証しましょう。
東彦:検証しましょう、って。私はそろそろこのカツカレーを食べたいんだけど。いい、食べて?
いちご:(カウンターの箸立てから真新しい割り箸を引き抜き、東彦の皿に割り込む)このカツの角度を12度、時計の針で2分傾け、福神漬けの間隔を2ミリ縮めます。どうですか。これは「軽蔑」として認識されますか。
東彦:おお、なんだかすごく冷たい目で見下されている気がするな。「海」でさ、カラオケですべると、ママがこんな顔で見るんだよ。
いちご:素晴らしい。では、このルウの境界線に合わせてカツを配置し直した場合は。(目にも留まらぬ速さでカツを動かす)これは「絶望」のパラメータに近いですか。
東彦:ちょ、ちょっと、何するの。食べ物で遊ぶな。私の昼飯をパズルみたいに。
いちご:まだ足りません。感情の解像度を上げるには、変数を増やす必要があります。スプーンを貸してください。ルウの滴下量で「狂気」の表情をモデリングします。
東彦:私のカツカレーが、知らない女の子の狂気に染まっていく……! やめてくれ、カツのサクサク感を楽しみにしてたのに!
いちご:静かにしてください。現在、3つの点が持つ視覚的変数の組み合わせから、人間の感情マトリクスを完全再現するためのアルゴリズムを構築中です。
東彦:アルゴリズムの前に、私の胃袋がぐずりだしてるんだ! カツカレーは見るもんじゃない、食べるもんだ!
いちご:(カツと福神漬けの配置を微調整し、最後にスプーンを置く)完成しました。これは「諦観」です。今のあなたの顔の筋肉の動きと、完全に一致しています。
東彦:(自分の顔に手を当て、皿のカツカレーを見る)ほんとだ。これは、海ママじゃない。私だ。
(そこへ、奥の席からここあん図書館員の鈴木美桜が近づき、東彦のカツカレーを覗き込む)
鈴木美桜:あの、そっちの席で聞いてて思ったんですけど。
東彦:ん? ああ、美桜さんか。
美桜:それって、たまたまできたのが「顔に見えるねえ」って、それが面白いというか不思議なんであって、箸やスプーンで動かしちゃ意味ないっていうか、思い切り「ずる」なんじゃないですか?
東彦:(雷に打たれたようにハッとし、顔を上げる)ずる? いや、それは私じゃない。
いちご:(美桜の言葉など全く聞こえていない様子で、メジャーを取り出して福神漬けの間隔を測り始め、完全に研究に没頭している)やはり手動の観測には限界が。空間認識アプリで座標データを取得し、配置を正確かつ細かく数値化しましょう。
美桜:(いちごを放っておき、東彦に声をかける)カレー、冷めちゃいましたね。
(東彦、悲しそうにうなずき、スプーンでカツを器用にほぐし、すくい取って食べる)
いちご:あっ。動かさないで。
東彦:(いちごの言葉を無視して食べる)ん? 冷めたことで、スパイスが立ってきた? 衣も、ルウを吸ってふやけてるが……、その染み込み具合がたまらなく美味いな。新たな発見!
いちご:え、「発見」?(いちごの目が科学者の喜びで輝く)何を「発見」されたんですか?
東彦:君は、測ってろ。
(幕)
作・千早亭小倉






