【登場人物】
黒崎 文:ここあん高校生。文芸部部長。三島文学の信奉者。一語一句を読み飛ばせない性格。
菜箸 千夏:ここあん図書館主任司書。几帳面で、館内の静寂と秩序を何より重んじる。
聖 林太郎:ここあん大学院生。映画サークル「アーヌエヌエ」元幹事長。映画のことになると声のボリューム管理ができなくなる。
【場面設定】
夏の夕暮れ時。ここあん図書館の片隅にある窓際の閲覧スペース。黒崎文がテーブルで角川文庫『夏子の冒険』を広げたまま、眉間に皺を寄せて固まっている。菜箸千夏がすぐ横で返却本を書架に戻す作業をしている。

菜箸千夏:(本を棚に差し込みながら、小声で)黒崎さん。
(黒崎文は微動だにせず、ページを睨みつけている)
千夏:黒崎さーん。さっきから30分以上、同じページを開いたままですよ。もしかして、寝てます?
黒崎文:愚問。(顔だけをゆっくり千夏へ向ける)寝てる人に、「寝てますか?」って声かけないでしょう? 進めないのよ。次の行へ。
千夏:活字の森で遭難しないでください。ここあん図書館は、心の安全地帯なんですから。
文:何の気休めにもならないメッセージをありがとう。
千夏:(少しだけ、むっとする)貸出処理をして、続きはお家で読まれてはいかがですか?
文:三島由紀夫の著作を前に、そんな軽々しい真似ができるわけないでしょ。私の文学的理性が、この159ページの12行目で通行止めを食らっているのよ。
千夏:本来、利用者が読まれている本に介入してはいけないのですが。(と言いつつ、文の前に置かれた文庫本を覗き込む)『夏子の冒険』ですね。私も高校生のときに読みました。
文:読んだ? 読んだのに、このページに何の違和感も覚えなかったの? それとも、あまりに昔の話で忘れちゃった?
千夏:(少しだけむっとする)これって、なんでしたっけ、夏子が仮眠しようとしてて、犬の遠吠えに怯えている場面ですね。
文:そうよ。というか、書いてあることを読んだだけじゃない。そこで、この左ページの11行目と12行目よ。主人公の夏子は不安を打ち消すために、知っている限りの映画俳優の名前を呪文のように唱え始める。そこに書かれている並び!
千夏:「リタ・ヘイウォース、グレゴリー・ペック、マリア・モンテス、ジェイムス・ステュアート」。ずいぶんと華やかなおまじないですね。マリア・モンテスって、誰だろう? あ、教育者でそんな人がいたような。
文:はぁ。マリア・モンテッソーリでしょ、それは。司書さんは、知らなくても、読み飛ばせるクチね。マリア・モンテス。「テクニカラーの女王」と呼ばれたエキゾチックな美女。生命力の塊みたいな女優よ。夏子って、北海道まで熊を撃ちに来たんでしょう? 夏子が自分を投影するにはぴったりだわ。問題はそこじゃないのよ。グレゴリー・ペックとジェイムス・ステュアートって何なのよ。
千夏:何なの、と言われましても。どちらも、有名な俳優さんですよね。
文:誠実で無害な紳士の役ばかりじゃない。危険を求めて北海道の原野まで突っ走ってきた夏子にとって、一番退屈で興味のないタイプのはずよ。なぜ夏子の口から、この二人が出てくるの。矛盾しているわ。
(背後の棚から、聖林太郎が映画雑誌を抱えて身を乗り出す)
聖林太郎:(息を潜めた早口で)黒崎さん、それこそが三島のリアリズムなんだよ。
千夏:ああ、びっくりした。林太郎さん、忍び足で会話に混ざらないでください。
林太郎:ごめんね。でも、映画の話と来たら、黙っていられないよ。真っ暗な北の大地でガクブルの女の子が求めるのは、「絶対に裏切らない、退屈なまでの圧倒的善人」なんだ。
文:圧倒的善人? この村にいないタイプ。
林太郎:そう。ここあん村にはいない。グレゴリー・ペックの揺るぎない知性。ジェイムス・ステュアートの隣人愛。この世界の二大紳士で精神の防波堤を築きつつ、リタ・ヘイウォースの美貌で武装し、マリア・モンテスの野性で敵を威嚇する。完璧な四重奏だよ。
文:なるほど、防波堤としての紳士か。一理あるわね。
林太郎:ちなみに、いまはリタ・ヘイワースっていう事が多いよね。名前に、利己と利他の「利他」と「平和」が入ってるってすごいよね。
文:本人は、きっとどうでもいいって言うわよ。
林太郎:ヘイウォースの「ウォー」と正反対というか。あ、ちなみに、映画『ショーシャンクの空に』の原作は、スティーヴン・キングの中編小説『刑務所のリタ・ヘイワース』だから、覚えておくといいよ。
文:林太郎さーん、こっちの話に戻ってこられます? さっきの「防波堤としての紳士」論だけど、致命的な問題が残っているわ。
林太郎:なんだい? ああ、ちなみに、グレゴリー・ペックは『白い恐怖』で精神錯乱の記憶喪失者を演じ、ジェイムス・ステュアートは『めまい』で偏執的なストーカーまがいの男を演じて、固定化された殻を破ったとか、そういう話? それでも解決しない?
文:(林太郎の話はスルーして、文庫本のある部分を指さす)ここに書いてあるでしょう、「知っているだけの映画俳優の名前をあげていく」って。つまり、夏子はもっとたくさんの名前を唱え続けたはずなの。三島が紙面に残したのは4人だけ。じゃあ、書かれなかった「5人目のスター」は一体誰だったのよ。
千夏:そこを突き止める必要はありますか。物語の本筋は、夏子の冒険ですよ。
文:千夏さんとは違うもの。ここを読み飛ばせるわけないでしょ。当時の読者がこれを読んだとき、脳裏に浮かんだはずの5人目を特定しない限り、私は夏子と同じ夜を過ごせないわ。
(林太郎が目を輝かせてメモ帳を取り出す)
林太郎:面白い。この小説が書かれたのはいつ?
千夏:(文より先に、早口で)1951年。(不敵そうに、文に向かって微笑む)
文:(唸り声)ぐるるるる。
林太郎:なるほど。そっか、先ほどあげた『めまい』だけど、あれは1958年公開だから、例として不適切でした、失礼! で、主人公夏子の年齢は。
文:20歳。性格は情熱的で一途、やや突飛で人騒がせなお嬢様(勝ち誇った笑みを千夏に向ける)
(千夏、悔しそうに手にしていた本をぎゅっと丸めていることに気づき、あたふたする)
林太郎:となれば、5人目はハンフリー・ボガート。ハードボイルドな男気にすがるというのは?
文:却下。ボガートの煙草の煙は、北海道の澄んだ夜気には重すぎるわ。
林太郎:ならば、ジョン・ウェインはどうだ! 西部劇の英雄なら熊も一撃だ。
文:夏子が自分で戦う前に男が銃を撃っちゃうでしょ。台無しよ。
(千夏が、林太郎と文の会話にすっと割って入る)
千夏:(小さく咳払い。囁き声で)お静かに。小声でもおふたりの熱量が規約違反のレベルです。だいたい、不安を消すためなら、映画俳優などという実体のない幻影を呼ぶのが間違いなのです。もっと確固たる、現実に根ざした存在を唱えるべきです。
文:存在? だれ? もしくは、何?
千夏:森清。
文:だれ、それ。
千夏:日本十進分類法の父。図書館学者です。夜の闇に怯えたら、ゼロ類総記、一類哲学、二類歴史と唱えればよいのです。あらゆる知識が整然と棚に収まっていく秩序の美しさで、どんな邪念も消し飛びます。
文:そんなの覚えられないわよ。
千夏:それよりも、黒崎さんにここで大事なお知らせがあります。そろそろ閉館時間です。黒崎さんに残されているのは、本を戻すか借りるかの2択です。
文:ここさ、北海道の牧場主が夏子を見る目つきがちょっとやばいの。70年前の夏子のピンチを私が救い出してあげないと、帰れない。
千夏:文さんが読んでも読まなくても、結末は変わりませんから。
文:あ、それ言っちゃだめなやつじゃない? 本好きが減るよ。
千夏:失礼しました。では、続きはお家で、ご自身のペースで救出してあげてください。
文:(うなる)ぐるるるる。
林太郎:俺も5人目のキャスティングが決まるまで、気になって今夜は眠れそうにないな。ゲイリー・クーパーだったのかな。
(そのとき、館内に、閉館を告げるオルゴールのメロディが静かに流れ始める)
千夏:閉館時間です。
(文が、持っていた文庫を林太郎に渡す)
林太郎:え、続きは読まなくていいの?
文:だって、もう何度も読んだもの。林太郎さんにあとは譲るわ。映画サークルの元幹事長のプライドにかけて、5人目を見つけたら、私に教えて。
千夏:何か思いついても本に書き込まないでくださいよ。
林太郎:書かないよ。
(幕)
作・千早亭小倉






