【登場人物】
菜箸 千夏:図書館主任司書。几帳面で秩序を重んじるが、自分のミスを認めたくないあまり屁理屈をこねる。
菜箸 かな:千夏の姉。フリーランスの翻訳家。冷静に妹の言動を突っ込む。
古河佐助:古書肆。移動図書館の常連客でもある。「元忍者」との噂あり。
【場面設定】
夕方。移動図書館「ロマコメ号」の前。車両側面のハッチが跳ね上げられ、いろいろな本が並んでいるのが見える。手前に倒した簡易カウンターに、菜箸かなが原稿の束と、飲みかけの水筒を置く。千夏は、カウンター横に広げた簡易テーブルのそばで、受付の片付けを始めている。そこへ、古河佐助がやってくる。

菜箸かな:(水筒からひと口、ふた口、麦茶を飲み、受付の千夏に声をかける)千夏、もう終わりでしょう? 千夏の分の麦茶もあるから、ちょっと飲みなよ。
菜箸千夏:お姉ちゃん、本の近くにそういうの置かないでって、いつも言ってるよね?
かな:そういうの? え、お茶? 原稿? 大丈夫だよ。ふた付いてるから。(と言いつつ、ふたはまだ開いたまま)
(そこへ、古河佐助が、腰を落とし、頭を動かすことなく、すすすっと走り寄ってくる。70代半ばとは思えない身のこなし。大きな本を脇に抱えている)
古河佐助:(涼しい顔で)よかった、間に合った。千夏さん、これ、先週借りた牧野博士の植物図鑑。やっぱりいいね。
千夏:あ、佐助さん、こんにちは。楽しんでいただけて何よりです。少しお待ちを。(テーブルの下のコンテナを覗く)確か、追加の予約本が。
佐助:あ、ここでいい?(佐助、かなの原稿や水筒が置かれたカウンターに図鑑を置く)よいせっと。
千夏:佐助さん、あっ、そこは、あっ、いいです。
佐助:おっと、悪い悪い。そっちだったか。
千夏:大丈夫です。こちらで取ります。
(佐助と千夏、本の返却と受け取りが錯綜し、少しドタバタする。千夏がカウンターから図鑑を取ろうとした拍子にバランスを崩し、水筒のフタを閉めようとしていたかなとぶつかる。水筒が倒れ、麦茶が勢いよく流れ出して、カウンターに広げられていた原稿の束を直撃する)
かな:(悲鳴)ちょっと、千夏!
佐助:うわっと。(佐助、千夏の手の下から器用に本を抜き取り、身軽にバックステップを踏んで水滴を避ける)
千夏:あ、佐助さん、怪我、お怪我はありませんでしたか。
佐助:私は大丈夫。牧野博士もね。(植物図鑑の表紙を千夏に見せる)それより、お茶がお姉さんの原稿に。
かな:もう、何してくれてるの。これ、徹夜で上げた最終原稿だったのに。
千夏:あ、お姉ちゃん、ごめん。打ち出せば大丈夫?
かな:それがね、千夏ちゃん。よりにもよって手書き原稿なの。ふふ、ステキでしょう?
千夏:あちゃあ。でも、今のは完全に不可抗力だよ。
かな:どこが、ど、こ、が、不可抗力なの。千夏が横から無理な体勢で手を伸ばしてきたから、私の手首にぶつかったんでしょ。どう見ても千夏の不注意じゃない。
千夏:違うよ。作業エリアの至近距離にフタの開いた水筒を置いていたお姉ちゃんの安全配慮義務違反だよ。それが、事故の直接的な引き金になったんだよ。
佐助:いや、私が変な場所に本を置きさえしなければ。
千夏:違います。佐助さんのは、あくまで間接的なものです。
かな:え、直接的だの間接的だの、あなた、自分が入ってないじゃない。私がフタを閉めている最中に突っ込んできたのは誰よ。100対0で千夏が悪い。それより、千夏、拭くものないの?
千夏:拭いてはダメです。佐助さんを前にして何ですが、水濡れした紙に摩擦を加えると、繊維が毛羽立って即座に破損します。濡れた本や書類は、吸水材で押さえるか自然乾燥させるのが絶対の鉄則です。
佐助:千夏さん、それは理屈だ。だけど、ほら、インクがどんどん滲んで文字が溶け出していますよ。
千夏:ううむ。いや、風通しを良くして水分を蒸発させれば、染料の定着は維持できます。
かな:もう、意地っ張りというか。
(千夏、姉の言葉をスルーし、原稿の惨状から視線を外すと、受付テーブルのバーコードリーダーのカールコードを指で伸ばしたりしている)
かな:千夏、コードをいじってる場合じゃないでしょ。
佐助:見事な隠れ身の術だね。
千夏:忍術ではありません。定められた業務環境を維持しているだけです。最適解が出ました。今すぐ冷風で乾かします。
(千夏、ロマコメ号の備品箱から家庭用ドライヤーを取り出し、車内インバーターのコンセントにプラグを差し込んでスイッチを入れる。直後、「ピー」と甲高い警告音が鳴り響き、ドライヤーは動かない)
かな:動かないじゃない。
千夏:あ。定格出力オーバーでした。
かな:使えない道具を持ってこないでよ。ああ、私の睡眠時間を返して。文字が完全に潰れちゃう。
千夏:徹夜だったのですから、返すなら、寝なかった時間です。
かな:へ、り、く、つ!
千夏:手動で風を送ります。これで解決します。
(千夏、受付テーブルから大型のプラスチック下敷きを掴み取り、濡れた原稿に向けて猛烈な勢いで上下に仰ぎ始める)
佐助:千夏さん、それはダメだ。
(濡れた原稿だけでなく、周囲に重ねてあった乾いた原稿用紙数十枚が一気に巻き上げられ、車外の地面へバラバラと広範囲に散らばる)
かな:あああ!
千夏:細腕に見合わぬ強風が発生。すぐに回収します。
(佐助、忍者のようなすばやさで、数枚の原稿を、地面に落ちる前にキャッチ。それでも、かなりの原稿が地面に散らばる。3人で、原稿を拾い集め始める。そこへ、ポツ、ポツ、と大粒の水滴が地面に落ちてくる)
佐助:(空を見上げて)千夏さん、これは、踏んだり蹴ったりだね。
千夏:はい。泣きっ面に蜂です。
(ゴロゴロと雷鳴が響き、急激に強い夕立が降り注ぎ始める)
千夏:はっ、ロマコメ号の車内の本が濡れます。ハッチを閉めないと!
かな:待ちなさい! 私の原稿を拾うのが先でしょ!
佐助:とりあえず、拾えるだけ拾いましょう!
かな:全部、全部です!
(かなと佐助、ずぶ濡れになりつつ地面の原稿をかき集める。千夏は受付のノートPCなどを車内に避難させる。降り続く雨。3人がロマコメ号のハッチの下で雨宿り。かなの腕には、波打った原稿の束が抱えられている)
千夏:(かなが持っている原稿を指さし、胸を張って)見てください、お姉ちゃん。完全に不可抗力の天災です。大自然の猛威の前には、個人の責任問題など完全に無力化されました。
かな:全体が雨で濡れたからって、最初に麦茶をぶちまけた千夏の罪が消えるわけじゃないからね。
佐助:(車内から傘を勝手に取り出し、かなに差し出す)これ、借りてもいいよね。
かな:あ、ありがとう。佐助さん。佐助さんは?
佐助:これは、すぐ止むよ。通り雨だ。
(佐助、ぴょんぴょん飛ぶように、雨の中、帰っていく)
かな:通り雨なら、待っていれば。かっこいいけど(傘を握りしめる)。
千夏:あ、牧野博士の予約本、持って来てたのに。ま、いいか。
かな:ま、いいか。ほら、片づけよ。手伝うから(手にした傘を図書館車に立てかける)。
(「ま、いいか」と言っても許されるくらいの雨脚だが、空は明るい天気雨)
(幕)
作・千早亭小倉






