世田谷区砧の、新築風の平屋。その庭の隅っこ、名前も知らない大きな葉っぱの下――イチローたちが路地で見かけた少年が勝手に「ハル区」と名付けて、角の丸い石や蝉の抜け殻を住まわせている領土を、3つの怪しい影が侵略していた。いや、実際は、単にその上あたりに存在していただけだが。
「おい、踏むな! それは『マイマイさん』の家だぞ!」
声の主ははるひこ。イチローたちが追ってきた少年だ。はるひこは、居間に腹ばいになったまま、口を尖らせ、抗議する。
半ズボンにランドセル姿の「言い訳」が、慌てて足を引っ込める。中身はネガティブ概念のくせに、小学生のガワを被せられたせいで、妙に子供らしい規律に縛られていた。
「これが、あのガキの家か」
ヨレヨレのスーツの襟元を正しながら、イチロー――「月曜日の憂鬱」は、はるひこから家全体に視線を移した。成城の駅から徒歩で10分ほどか。令和なら、いくらするだろうか。そんなイチローの人生にはこれからもまったく関係しない、邪念とも呼べない意識が浮かんで消えた。
いまは、それどころではないのだ。概念界を赤茶色に染め上げた、謎の「セピア化現象」。光り輝くポジティブ概念たちが次々と吸い込まれていった次元の裂け目は、この不自然なほど静まり返った平屋の居間に繋がっているようだった。
「大文字の概念――『希望』や『愛』を拉致した黒幕が、このガキの家にいるはずだ」
「おいおい、本当に乗り込むのか? 俺、まだ一昨日の酒が抜けてなくて頭が割れそうなんだが」
頭にネクタイを巻いた赤ら顔の「二日酔い」が、千鳥足で庭のコンクリートの凹みにつまずきながら呻く。
「行くぞ。世界のバランスを取り戻し、いつの日か人間界に戻るために」
イチローが意を決してサッシの窓を引く。鍵はかかっていなかった。昭和の防犯意識の緩さに感謝しながら、3人は泥棒のように居間へと滑り込んだ。
だが、そこで彼らを待ち受けていたのは、罠でも、強大な魔法でもなかった。
それは、ただの、圧倒的に低血圧な日常。
居間の真ん中、色褪せた布張りのソファに、ひとりの主婦が横たわっていた。はるひこの母、みちこである。彼女はクッションを抱き抱えたまま、死んだ魚のような目で天井のシミをじっと見つめていた。呼吸をしていることだけが、彼女が生者であることの唯一の証明だった。
そのソファのすぐ下、畳の上では、10歳の少年はるひこが、腹ばいになって2冊の国語辞典を広げていた。彼は、何やらノートにカリカリと文字を書き留めている。耳には、赤青鉛筆。
そして、少し離れた子ども用の椅子には、5歳の弟、なつひこがちょこんと座っていた。テーブルの上には、十数本の白いプラスチック製のレンゲが、枕木のように等間隔で、見えない線路を描いて並べられている。
「らっら、らっら……」
なつひこは、耳元で親指と中指をシャリシャリとこすり合わせ、にやにやと笑いながら、小さくハミングを繰り返していた。
「な、何だ、この空間は」
イチローは、一歩後退りした。
テレビのレトロ特集で見るような、ちゃぶ台を囲んで賑やかに笑い合う「温かい昭和の家族」など、そこには微塵も存在しなかった。それぞれが独自の論理と閉鎖的な世界に閉じこもり、同じ空間にただ同居しているだけの、冷え切った個の集合体。
「お、おい、イチロー。あそこに『希望』のエネルギーを感じるぞ」
二日酔いが、なつひこの並べるレンゲの先を指さした。確かに、白いレンゲの上に続く、見えない線路の先に、セピア色だが、しかし確かに「希望」の残滓と思われるものが、陽炎のように立ち上っている。
「よし、力ずくでも情報を吐き出させる。俺の『憂鬱』の力を見せてやる」
イチローは一歩前に出ると、かつて過労死する直前の満員電車で培った、あのドス黒く澱んだ「月曜日の憂鬱」の波動を、部屋全体に放射した。日曜の夜、明日からの仕事や学校を想い、胸が締め付けられるような、あの鉛色の絶望感。
波動は、真っ直ぐにソファのみちこへと向かった。
しかし。
「……はぁ。足がだるいわね」
みちこは、天井のシミを見つめたまま、ただ小さく息を吐き出しただけだった。
彼女の「やる気のなさ」と「日常の倦怠」は、すでに絶対零度に達していた。最初からやる気がゼロパーセントの存在に対して、「やる気を0.02パーセント下げる」だけのイチローの憂鬱など、完全にスルーされる運命にあった。攻撃が、暖簾に腕押しどころか、真空に吸い込まれて消えていく。
「俺の憂鬱が、全く効かない!?」
愕然とするイチローに、今度は畳の上のはるひこが、目を輝かせて顔を上げた。
「あ! お母さん、すごいよ! 国語辞典の『ゆううつ【憂鬱】』の例文を見てたら、『疲れ切ったサラリーマンが、重い足取りで歩く』通りの人が家に入ってきたよ! 本当にスーツがヨレヨレだ!」
はるひこは、怖がるどころか、急いでノートを開いてカリカリと鉛筆を走らせ始めた。たまたま読んでいた辞書の例文通りの光景が目の前に展開していることに、驚きも恐怖も感じず、ただ興奮し、喜びの声をあげているのだ。
「こ、コラ! 俺はただのサラリーマンじゃない! 概念だぞ!」
「半ズボンの弱そうな子どもは、なんだろう。あっ」
はるひこが、ノートをぱらぱらめくる。
「あれは、『いいわけ【言い訳】』だ。『宿題を忘れた少年は、もっともらしい言い訳を考えた』って例文。宿題はわからないけど、ランドセルを背負った挿し絵にそっくりだ」
「挿絵だって?」
言い訳がはるひこのノートをのぞくと、はるひこの手書きのイラストが、「いいわけ」や言い訳の「例文」に添えられている。
「あははは、うまいな。しょぼくれてる感が『言い訳』そっくりだ」
「だって、それはこいつがそう描いたから、俺がそうなっちゃっただけだよ」
イチローのツッコミに、言い訳がどうでもいい自己弁護を始め、結果、はるひこのノートの記録をさらに豊かにしていく。
イチローは、この家の子どもの「絶対的観察」の目の前に、自分たちの存在がただの「事例」としてフラットに処理されていくことに、強烈な違和感を覚えた。弟と思われる子どもが、自分たちへまったく関心を寄せないこともそうだった。彼らにとって、自分たちは異世界の不審者ではなく、ただの「辞書の例文の具現化」や「そこにある空気のようなもの」に過ぎなかったのだ。
「ええい、こうなったら、あのレンゲを並べているガキだ! まずは、あいつから『希望』を回収する!」
二日酔いが、千鳥足でなつひこに近づき、テーブルの上のレンゲに手を伸ばそうとした。
「おい、ガキ。そのレンゲ、ちょっとよこ……」
「だっ!」
なつひこが、突如として大声を上げた。
彼は二日酔いの手を、ものすごい力で払い除けた。その瞳には、二日酔いに対する怒りも、恐怖も、関心も浮かんでいなかった。ただ、自分の「幾何学的な秩序」を乱そうとする異物に対する、純粋な拒絶。
「らっら、らっら、だーっ!」
なつひこは、再び白いレンゲを1本、また1本と、等間隔に修正し始めた。その、徹底された「自己のきまり」の前に、二日酔いは気圧されて一歩引いた。
「何なんだよ、こいつは。俺の『後悔』も、昨夜の楽しかった記憶も、あいつの『らっら』っていうハミングの前に、綺麗さっぱり消し飛んじまう。俺の存在そのものが、ただの『背景』にされていくみたいだ」
二日酔いが、青ざめた顔をさらに青くして呟く。
そう、なつひこは、言語と論理の外部に存在する、強固な「圧倒的な現実」そのものだった。
イチローたちの、大層な「大文字の概念」や、人間界を揺るがす「不条理なルール」など、なつひこの前では1ミリも通用しない。イチローたちからすると、なつひこは、ただそこに存在するだけの、解読不能な「舞台装置」であり、概念たちの干渉をすべて無効化する、最強の防壁だったのだ。
「はる。だれかいるの? お友だちなら、マヨナンロールでも出しておきなさい」
ソファの上で、みちこが雑誌を顔に乗せながら、くぐもった声で言った。
誰も、イチローたちを追い出そうとはしなかった。
ただ、この家の噛み合わない、低血圧な日常の一部として、静かにスルーされていく。
「クソ。この家、昭和の懐かしい世界なんかじゃない」
イチローは、冷や汗を流しながら、居間の冷えた空気を見回した。
「温かさも、対話もない。なのに、どうしてこんなに強固に、壊れずにそこにあるんだ……?」
大文字の概念が通用しない、解読不能な家族。
その、どうしようもない異常さ、いや、ユニークさの前に、令和のサラリーマンだったイチローは、ただただ、タジタジになるしかなかった。
(第4話へ続く)



