【登場人物】
古河モン太郎:編集プロダクション「ぽんちょ」社長。理屈よりも「生のエネルギー」を愛する豪快な男。
辻さゆり:フリーランスの校正者。無駄な装飾や論理の破綻を容赦なく削ぎ落とす「言葉の外科医」。
【場面設定】
椎名町三丁目の雑居ビルにある、編集プロダクション「ぽんちょ」のオフィス。校了前の張り詰めた空気の中、さゆりがゲラに向かって淡々と赤ペンを走らせている。

古河モン太郎:辻さんさあ。あの、ガスコンロに乗っかってる鉄の輪っか、あるだろ。鍋を置くやつ。
辻さゆり:(ゲラから目を離さずに)五徳ですね。
モン太郎:そう、ゴトクだ! なんでゴトクって言うんだ? やっぱり、はめる時にゴトゴト言うからかね?
辻さゆり:その論理的根拠のない「やっぱり」という言葉の使い方が気になります。
モン太郎:え、ゴトクの話は?
辻さゆり:(嘆息)5つの徳と書いて、五徳です。徳は……徳川家慶の徳、といえば、おわかりでしょうか?
モン太郎:トクガワイエヨシ?
辻さゆり:第12代将軍です。「そうせい」の四文字だけで意思決定を完了させた、究極のミニマリストです。
モン太郎:話がずれてきてないか?
辻さゆり:感情労働の排除の話ではないのですか?
モン太郎:え、そうだっけ?(間)違うよ。ゴトクだよ。五つの徳で五徳だろ? なんでその、五つの徳って書くんだ? 仁義礼智信………あと忠・孝・悌だっけ? 八犬伝みてえな熱いドラマが隠されてるんじゃねえのか!?(目を輝かせて身を乗り出す)
さゆり:(赤ペンを走らせる手を止め、再び小さくため息をつく)社長。その質問に対する回答は、現時点では全面的に保留させていただきます。
モン太郎:なんだよ! 言葉の外科医なんだから、サクッと教えてくれよ。12代将軍の話はしたそうだったくせに。俺の魂が五徳の真実を求めてるんだよ!
さゆり:サクッと終わらないからお断りしているんです。その語源は極めて不確実で、諸説が乱立しすぎています。
モン太郎:諸説?
さゆり:ええ。まず、仏具の香炉などを置く台に由来する説。次に、かまどを意味する「クド」が訛って「ゴトク」になったという説。さらに、熱を保つための「火ところ」から転じたとする説。これらを、社長が変な深読みをして納得するまで説明するには、最低でも十五分の時間を要します。
モン太郎:おっ、仏具に由来! いいねえ、歴史の重みを感じるじゃねえか。で、どれが本当なんだ?
さゆり:ですから、確定していないと言っているんです。さらに厄介なことに、もともとの道具が3本足であったのに対し、なぜ「五」の字が使われるのかという数字の矛盾も指摘されます。この謎を解くために陰陽五行説や儒教の徳目に結びつける説もあり、話が大きく広がる部分でもあります。
モン太郎:来た来た来た来た。三本足なのに五徳って。ミステリーじゃねえか! 気になって校了どころじゃないぞ!
さゆり:社長が目を輝かせるほど、私の説明コストは跳ね上がります。現在、校了まで残り2時間。この状況下で五徳の由来について語り合うのは、生産性を著しく下げる無駄なノイズです。
モン太郎:ノイズって言うな、AIかよ。日常の些細な疑問から、ドカンと「生のエネルギー」が湧き上がってくることってあるだろ! 原稿ってのは心臓の鼓動なんだから!
さゆり:湧き上がりませんし、鼓動もしていません。五徳のロマンをどれだけ語っても、目の前の原稿の誤字は一つも減らないという物理的な事実があるだけです。
モン太郎:くぅーっ、辻さんは冷てえな! ジョン・カザールならもう少し哀愁のある返しをしてくれるぜ!
さゆり:ジョン・カザールはさらに関係ありません。ゴタゴタ言っている暇があったら、このゲラの赤について、まずはご判断を。それが、あなたの今の仕事です。
モン太郎:(肩を落とし、すごすごとデスクに戻る)なあ、ゴタゴタとゴトゴトって似てないか?
さゆり:早く作業を進めてください。
(幕)
作・千早亭小倉





