【登場人物】
阿斗 理恵:芸術家アパート「音巴里荘」の大家。混沌や生活の汚れを「生命の輝き」として全肯定する。
ひまわり(姉子):沈繕の修繕屋。日本語は話さず、たんぽぽ(妹子)とは、ポルトガル語で会話する。
たんぽぽ(妹子):野生の採集者。常に、ひまわり(姉子)と行動をともにする。
菜箸 かな:フリーランスの翻訳家。しなやかな知性を持ち、物事をフラットに捉える。
【場面設定】
ある夏の午後。芸術家アパート「音巴里荘」のエントランス前。阿斗理恵が、巨大なたらいと洗濯板を使って、住人たちの衣服を豪快に洗っている。そこへ、サビだらけの軽バンが乗り付けられる。

(軽バンのドアが開き、泥と油にまみれたデニムのつなぎを着た姉子と、アウトドアウェア姿の妹子が無言で降りてくる。姉子は工具箱からドライバーを取り出し、エントランスに掲げられた古風な看板「音巴里荘」の立て付けを直し始める。妹子は看板の足元に生えている雑草をしゃがみ込んで物色している)
阿斗理恵:(洗濯板から手を止め、前腕で額の汗を拭う)あんたたち、また勝手に直して。直してくれてと言ったほうがいいか。助かるからさ。
(姉子は理恵の言葉を無視し、ネジを締め直す。看板がしっかりと固定されたのを確認すると、姉子は看板の「音巴里荘」という文字を指差し、首を傾げる。読めない、というジェスチャー)
理恵:ああ、それ? 「おんぱりそう」って読むんだよ。
(姉子、きょとんとしている)
理恵:「おん」「ぱり」「そう」。湖のところのブックカフェ知らない? あそこの経営者のお父さんが、ここの持ち主なんだけど、芸術の都の「パリ」を気取って付けたみたいよ。『モン・パリ』とかから来てんのかしらね。まあ、ここの人間は、誰もなんで「おんぱりそう」なのかは気にしてないんだけど。
(妹子も振り返り、きょとんとしている)
理恵:こんな小名地区のはずれで、「パリ」だってさ、笑っちゃうわよね。
(頭上の2階の窓が、勢いよくガラッと開く)
2階の住人の声:ちょっと! 「パリ」をディスらないで!
理恵:(見上げもせずに)はいはい。芸術の都は、今月分の家賃をきっちり払ってから愛しなさいな。
2階の住人の声:――っ!(窓がピシャリと閉まる)
(姉子と妹子が顔を見合わせる)
姉子:オ・パライーゾ?
妹子:パライーゾ!
(二人は、顔を見合わせて大声で笑い始める。 そこへ、散歩中の菜箸かなが通りかかる)
菜箸かな:理恵さん、こんにちは。ずいぶん賑やかね。
理恵:ああ、かなさん。
かな:たしか、「小古庵」でお会いしたお二人よね(コント「キイロは何色?」)。どうしたの、楽しそう。
理恵:音巴里荘のこと話してたら、急に笑いだして。言葉が通じないのかな? 「パライーゾ」「パライーゾ」って連呼してて。何がおかしいのかさっぱり。
かな:「パライーゾ」っていうのは、ポルトガル語なら「楽園」のこと。ああ、もしかして「音巴里荘」を「オ・パライーゾ」って聞き間違えたのかしら?
理恵:はあ? 音巴里荘がオ・パライーゾ? 似てる? ああ、でも、「楽園」にはほど遠いって、笑ったのかね。わからなくはないけど、失礼しちゃうね。
かな:あっ。スペイン語で「ひとつの楽園」だったら、「ウン・パライソ」だから、最後が濁らないわよ。ねえ、「ウン・パライソ」だったら、「おんぱりそう」に聞こえない?
姉子:(思わずボソッと)スペイン語だと、濁らないんだ。
妹子:ウン・パライソ。おんぱりそう。
かな:あら、日本語、わかるんじゃないの。
姉子:(ハッとして、親指を立て)Tá bom!
妹子:(同じく誤魔化すように)Gostoso!
かな:ふふ、Gostosoって、日本語の「美味しい」よね? 日本語の「ごちそーさん」にちょっと似てない?
理恵:ごちそうさん? 何が美味しいって?
(姉子と妹子は気まずそうに笑いながら、ハイタッチを交わす)
理恵:(呆れたように息を吐く)芸術の都が、一瞬でラテンの楽園になっちゃったわね。
(姉子は笑いをおさめ、理恵に向かって油まみれの親指を立てた)
姉子:Tá bom。
かな:「OK」ですって。
理恵:何が、「OK」よ。
(妹子も満足げに頷き、摘んだ野草をポケットにねじ込むと、二人は軽バンに乗り込もうとする)
理恵:ちょい待ち。これ、持っていきな。お礼。
(理恵、足元のバケツで冷やしていた缶ジュースを二人に続けて投げる)
姉子・妹子:うわっと!
(二人は慌ててキャッチする)
理恵:今度、来るときはもっとおしゃべりしようよ。ただし楽園の公用語は日本語だけどね?
(姉子と妹子は気まずそうに顔を見合わせ、そのまま軽バンに乗り込む。エンジン音を響かせ、車は去って行く)
理恵:(去っていく車を見送りながら、かなに)「ウワット」って、ポルトガル語?
(かなは、楽しそうに笑って首を振る)
かな:(音巴里荘を見上げて)「楽園」ねえ。こっちに引っ越してこようかしら。
理恵:やめときなよ。かなさんには、きさらぎタウン(ここあん村の新興高級住宅街)がお似合い。
かな:そうかなあ?
理恵:ほら、うちは、「楽園」よりやっぱりパリだから、小難しい芸術家の掃き溜め。
(頭上の2階の窓が、勢いよくガラッと開く)
2階の住人の声:巴里をディスるんじゃないわよ!
理恵:(見上げもせずに)え、天丼?
かな:天ドン? 理恵さん、天ぷらってポルトガル語なんですよ。
理恵:ポルトガルねえ。
(幕)
作・千早亭小倉






