【登場人物】
恋流波 陽:ここあん大学5年生。映画サークル所属のロマンチスト。
辻 さゆり:フリーランスの校正者。無駄な装飾や論理の破綻を嫌う合理主義者。
さやかっくす:巨大塔「ペンタ」の管理人。パルクールを愛する肉体派。
【場面設定】
夕暮れ時の「ペンタ」前。学バス停留所のベンチに、恋流波陽が古い文庫本を片手に座る。空には早い月がのぼり、薄暗い霧が漂っていた。隣にはゲラ刷りの封筒を持つ辻さゆりが腰かけ、少し離れた場所ではさやかっくすが工具箱を整理しながら水筒の緑茶を飲んでいる。

恋流波陽:ねえ、さゆりさん。月って落ちてこないですよね。
辻さゆり:「大丈夫、落ちてきませんよ」と安心させてほしいのか、「なんで落ちてこないんでしょう」と共感してほしいのか。もし、月が落ちてきたら重力バランスが崩れて、この停留所ごと木っ端微塵です。その前に、軌道から外れて落下する物理的要因がありませんが。
陽:違いますよ。ロマン主義の話ですよ。今、読んでる本に、そういう場面が出てきたから、言ってみたんですって。
さゆり:ロマン主義? ゲーテかユゴーでしょうか?
陽:言ったら面白くないじゃないですか。ヒントは、昭和初期の日本の小説。そこに、月が落ちてこない理由が書いてあるんですよ。「月は、太陽や星と、お互いに手をつないでいるから落ちない」って。さゆりさん、これ、すごくいいと思いません?
さゆり:手をつなぐ?
陽:宇宙の中で、みんなが寂しく離ればなれにならないように、目に見えない手をつなぎ合って浮いている。
さゆり:陽さん、おそらくそれは、ロマン主義ではないですね。ロマンチックではあるけれど。ただ、私には、物理的な相互作用を擬人化しすぎているように思います。昭和初期の小説ですか。現代なら、宇宙の過酷な環境を無視した、ただの現実逃避って切り捨てられそう。で、その小説とは?
さやかっくす:(水筒のキャップでお茶をすすりながら、しみじみと呟く)石ころ。
陽:えっ!?(立ち上がって驚く)さやかっくす、いま何て言った?
さやかっくす:石ころですよ、道ばたの落ちてるでしょ? このあたりにもいっぱい。
陽:知ってるの!? 小説なんて全然読まなそうなのに!?
さゆり:(ハッとする)え、もしかして、『路傍の石』ですか、正解は。でも、そんな場面あったでしょうか?
陽:当たりです、山本有三の『路傍の石』。大阪朝日新聞版を頭から書き直した『主婦之友』連載版が途中までしか行けず、その最後のあたりに出てくるんですよ。「月はなんで落ちてこないんだ」って話が。
さやかっくす:私は、小説の話なんかしてないっすよ。
陽:え、じゃなんで?
さやかっくす:その「月が星たちと手をつないでるから落ちない」って説が、フワフワしてて。私が、このペンタの壁を上ったり下りたりするのに、「ペンタと手をつないでる」って言うようなものでしょう? 足元をちゃんと固めてないっていうか、重力舐めてるっていうか。
さゆり:言ってたのは、小説のタイトルではなかったのね。
さやかっくす:だから、違うって言ってるじゃないっすか。その辺に転がってる石ころみたいな、役に立たない話だなって。少なくとも、私には。
陽:でも、「壁と手をつなぐ」って、いい表現じゃない?
さやかっくす:高いところに登るなら、手をつなぐなんて妄想じゃなくて、しっかり壁の足場を見て体重を支えなきゃ落ちるだけっす。
陽:(ベンチに座り直す)まあ、さやかっくすからしたらそうなんだろうけどさ。
さゆり:(陽の肩をポンと叩く)ふふ、でもね、山本有三の傑作は横においておいて、道ばたの石にはちゃんと意味があるんですよ。
さやかっくす:意味?
さゆり:まず、虫や微生物が雨風をしのぐ住まいになります。小さな生き物の隠れ場所なんですね。
さやかっくす:へえ。
さゆり:それに、地表の急な温度変化や乾燥をやわらげる効果もあります。土の温度や水分の調整役というわけです。さらに……。
さやかっくす:わかった、わかったっすよ。石ころ、ごめんよ、悪く言って。ねえ、もういい?
さゆり:道ばたの石ころたちは、長い時間をかけて地球が作った自然の姿そのものなのです。
陽:最後まで言わないと、気がすまないタイプなんですね。
さゆり:まだ、ありますよ。
陽:バス、来ないですね。
(幕)
作・千早亭小倉






