【登場人物】
恋流波 東彦:自由人(?)。永遠のモラトリアム青年を自認するポンコツおじさん。かっこいい言葉で日常の怠慢を誤魔化す。
徒 然士:ここあん大学日本文学科講師。完璧な様式美を信奉する文芸評論家。
東山 キイロ:喫茶「小古庵」のアルバイト。底抜けに明るく、インテリの論理を無邪気に破壊する。
【場面設定】
昼下がりの喫茶「小古庵」。カウンター席に東彦と徒然士が並んで座っている。

恋流波東彦:徒然士さんに、私の座右の銘について話したことありましたっけ?
徒然士:還暦を過ぎた男が、「たっけ」ですか。たぶん、聞いたことがあっても、いちばんに忘れたと思います。
東彦:いや、私もすっかり忘れていたんですけど、急に思い出して。
徒然士:はあ、それを聞けというわけですね。
東彦:「のびしろ無限大」。
徒然士:いや、ちょっと待って。こちらが良いとも悪いとも言っていないのに、まったくあなたという人は。
東彦:「のびしろ無限大」。
徒然士:厚かましいにもほどがある。そして、その座右の銘とやら。あなたの年齢で無限の成長を口にするなど、もはや傲慢を通り越して喜劇だ。
東彦:いやいや事実、体現中、体感中なんですよ。昨日もね、昼寝してたら、起きたらあたりが暗くてさ。これまで昼寝の時間は3時間くらいだったのに、昨日は4時間も寝てたよ。私の睡眠時間には、まだまだ未知ののびしろがある。
徒然士:それを世間では加齢と呼び、倦怠と言うのだ。可能性のベクトルが完全に下を向いているではないか。
東彦:狭い。
徒然士:狭い? 何がです?
東彦:徒然士さんは言葉を狭く捉えすぎている。「のびしろ」という言葉の持つ、おおらかな広がりを感じてほしいなあ。
(そこへ、東山キイロがお盆にコーヒーカップを乗せて現れる)
東山キイロ:お待たせしました。ご注文のブレンドです。聞こえちゃったんですけど、「のびしろ」って、とってもいい言葉ですよね!
東彦:ほら、若い子にはちゃんと伝わってる。
徒然士:キイロくん、この男の詭弁に同調するというのか。
キイロ:だって、私も昨日実感したんです。カップ麺にお湯を入れて、それを忘れて動画を見てたら、麺がスープを全部吸って、伸びちゃって。
徒然士:それは延びるだろう。
キイロ:あれって、私が食べてなかったら、カップの外まで出てきてたんですかね?
徒然士:出てこない。中の湯を吸い込んだだけで全体の体積は増えない。カップ麺に物理法則を無視した奇跡を期待するな。そして、それを、人間の精神的成長に結びつけない!
キイロ:はーい。でも先生、麺は伸びてたんですけど、味はそこそこで、お腹的にはすごく満たされましたよ。
徒然士:お腹的とか言うな、お腹的とか。
東彦:そうだねえ。東彦的には、ゴムの伸びたズボンなら、そのあともいくらでも食べられるよ。私の腹回りものびしろ無限大だ。
徒然士:東彦的とか言うな。二度と言うな。ちょんまげ生えるわ!
東彦:徒然的に許せないと。
徒然士:徒然ではない。徒、然士である。そして、なぜ君たちは、未来へ向かう美しい言葉を、ただの怠慢と物理的な膨張にすり替えるのだ。
東彦:なるほど。確かに、私の腹が宇宙のように無限に広がって行くのは、ロマンあふれる想像だな。徒然士さん、あなたもなかなか言いますな。さっき、「狭い」と言ったことは、撤回しますよ。
徒然士:撤回しなくていい。あなたのは、メタボリックシンドローム以外のなにものでもないわ!
キイロ:このブレンドも、お湯を足せば宇宙みたいにどんどん薄まって、無限に飲めますかね?
徒然士:な、なにを言い出すのだ。そんな話、どこから出てきたんだ? 引っ張るんじゃない。
キイロ:いえ、「無限」っておっしゃってたので。1杯分の料金で、無限のおかわりです。やかんのお湯、持ってきますね。
徒然士:やめろ。持ってこなくていい。小古庵の、志乃ママの味が死ぬ。しかし、ここのところ、君しか出てこないが、志乃ママはおらんのか?
キイロ:いますよ。あ、最近、出番が少ないとか言ってましたけど、関係あります?
徒然士:無い。メタ的なことだ。忘れていい。
キイロ:メタボですか?
徒然士:違う。関係ない。引っ張らない!
東彦:それより、キイロさんのアイデア、いいじゃないか。薄味のほうが、胃に優しいし、たくさん飲める。一挙両得だ。
徒然士:たくさん飲む必要などない。珈琲とは、この一杯に凝縮された香りと苦味を堪能するものであって、かさ増しして喜ぶものではない。
キイロ:小古庵のお水、おいしいんですよ。体にも優しいみたい。
徒然士:私は珈琲を頼んだのだ。水を飲みに来たわけではない。
キイロ:でも、先生、お冷やもおいしそうに、いつも飲まれるじゃないですか。
東彦:徒然士さん。言葉も珈琲も、もっとこう、のびやかに楽しめばいいんだよ。
徒然士:君たちのは、ただだらしなく伸びているだけだろう。そこに、何の様式美があるというのだ。
キイロ:でも、「のびしろ」は美しい言葉だって、先生もおっしゃていたじゃないですか。ちょっと待っててください、やっぱりお水、取ってきます。
(そこへ、奥から、小古庵のママ神崎志乃が現れる)
徒然士:(キイロの背中に向かって叫ぶ)せめて、お湯にしろ!
神崎志乃:あら、先生、お湯ですか。いますぐに。
(志乃が踵を返して、キイロとともに店の奥に引っ込む)
徒然士:ああ、ママ。
東彦:あははは。いまのよかったです。ちょっと、母親に甘える子どものようで。そういうのも得意でしたっけ?
徒然士:だから、「たっけ」と言うな!
(幕)
作・千早亭小倉







