【登場人物】
氷上 冬子:娘である静の不器用な生き方や、人間の必死さを喜劇として楽しむ生の肯定者。
中野 小春:ブックカフェ「シズカ」共同オーナー。静のパートナーであり、全てを善悪なく受け入れる大樹のような受容性を持つ。
【場面設定】
湖畔のブックカフェ「シズカ」。開店前の朝。カウンターの中では小春が開店準備をしている。冬子がスツールに腰掛け、メニュー立ての端を指先でなぞっている。

中野小春:(布巾でカウンターの水滴を拭き取りながら)冬子さん、朝早くからどうされたんですか。
氷上冬子:散歩よ。
小春:散歩って……、成城ヶ丘からだとかなりありますよね。
冬子:年寄りは朝が早いからいいのよ。それに、うちの気難しい娘が、ちゃんと朝ご飯を食べているか気になってね。
小春:静さんなら、さっきトーストをかじって、奥の書斎に籠りましたよ。
冬子:トーストね。相変わらず、パンくずの落下軌道でも計算しながら食べていたんでしょう。
小春:物理も好きですものね、静さん。今日はマーガリンの塗り方にこだわってました。端から1ミリの隙間もなく均等に塗らないと、味覚の不均衡が起きるって。
冬子:(小さく息を吐いて笑う)面倒な子ねえ。あなた、よくそんなのと一緒に暮らせるわね。息が詰まらない? たまには窓から締め出してもいいのよ。
小春:いえ。一生懸命にバターナイフを動かす横顔、見ていて飽きないですから。
冬子:飽きないって。あなた、静の必死なところを喜劇として楽しんでるんじゃないの? 私と同じね。
小春:(布巾を洗い、きゅっと絞る)そんなことないですよ。ただ、たまに、わざと真ん中だけマーガリンをたっぷり塗ったトーストを出すことはありますけど。
冬子:(目を少し見開く)……あら。
小春:どんな反応をするかなって。
冬子:それで、あの子はどうしたの。
小春:5秒くらい固まってから、「中心という特権的な存在が、周縁を抑圧している」って言って、真ん中からかじりつきました。鼻の頭にマーガリンをつけて。
冬子:(肩を揺らして笑う)傑作ね。私の前では絶対にそんな隙を見せないのに。あなた、案外タチが悪いわね。
小春:そうですか?
(小春がマグカップに珈琲を注ぎ、冬子の前に置く)
小春:でも、そのあとちゃんと拭いてあげましたよ。
冬子:(マグカップを両手で包み込む)拭いてあげた。手のかかる子どもね。あの子の分厚い理屈の壁を、あなたはいとも簡単にすり抜けてしまうのね。
小春:私はただ、同じ部屋で息をしているだけです。
冬子:つまらないわねえ。もっと、生々しい共同生活の愚痴でも聞けるかと思ったのに。
小春:ふふ。愚痴ならありますよ。
冬子:ほう。何かしら。
小春:静さん、夜中にこっそり冷蔵庫を開けて、麦茶をラッパ飲みするんです。
冬子:(少しむせる)あの子が?
小春:はい。「麦茶の本質を感じるためのミニマルな行為だ」とか言って。
冬子:理屈をつけても、ただ行儀が悪いだけじゃない。
小春:ええ。だから私、麦茶のボトルに「間接キスですね」って付箋を貼っておいたんです。
冬子:……。
小春:そしたら昨日の夜、静さん、無言でマグカップを三つも洗ってました。
冬子:(珈琲を口に運び、息を吐く)あなたには敵わないわ。
(幕)





