【登場人物】
綾小路 幹:ここあん大学大学院で音楽美学を専攻する。高尚な雰囲気とリズム感だけで中身のない会話を乗り切る、致命的な音痴の青年。
菜箸 かな:フリーランスの翻訳家。ざっくばらんでユーモアがあり、しなやかな知性を持つ、大人の余裕に満ちた女性。
【場面設定】
夕暮れ。ブックカフェ「シズカ」の、静かな窓際のテーブル席。 オレンジ色のペンダントライトが手元を照らし、菜箸かながノートパソコンの画面を見ている。 そこへ、綾小路幹が自分のノートを両手で大事そうに抱えながら、足音を小さくして近づいてくる。

綾小路幹:かなさん、お仕事中でしたか?
菜箸かな:ん? どうしたの、幹君。いいわよ。
幹:やった。ちょっと僕の新作のリリックを、聴いてみてくれませんか。
かな:リリック。そのファッションだと、まさかラップ?
(かなはパソコンから視線を外し、幹に向かって楽しそうに微笑む)
幹:その、まさかです。実は今朝、言葉の響きと構造が持つ、圧倒的な美しさに気づいてしまったんです。
かな:大げさね。ほら、いいから本題、本題。
幹:世間一般の凡庸な人たちは、「シフト」って聞いても、バイトのシフトか、キーボードの横長のキーくらいしか思い浮かばないですよね。s-h-i-f-t。
かな:まあ、普通の生活なら、それで十分というか。
幹:ですが、僕は知ってしまったんです。
(幹は誇らしげに胸を張り、ノートのページをめくる)
幹:s-i-f-t。hのないシフト。粉をふるう、あるいは、情報を精査するという意味の、馴染みの薄い単語。さらに、hに代打w。迅速を意味する、s-w-i-f-t。この奇跡のクリーンアップトリオに気づいた日本人は、おそらく僕を含めて、ほんの一握りしかいません。
かな:うーん、英語圏なら普通に使われる言葉だし、日本でも知っている人はそれなりにいると思うけれど。
幹:フッ、それは本当に知っている、使っていると言えるのかということですよ、かなさん。まあ聴いてください。この3つの言葉を完璧に配置した僕のバースを。いきます。
(幹が急に身振りを大きくして、テーブルの角を指先でトントンと叩きながら、リズムを取り始める)
幹:Yo、朝起き飛び込むバイトのシフト、 今日のタスク小麦粉シフト、 ガリバー書いたジョナサン・シフト、 膨大なデータ、そこからシフト、 定時でギアを素早くシフト、 目指すスピード常にシフト、 Uh、シフト、シフト、シフト、 これが僕らの生きてくシフト!
(幹は、ビシッと片手を前に突き出すポーズを決めて、深く息を吐く)
幹:どうですか。3つの言葉の文脈と、意味の美しいズレが、鮮やかに脳裏に浮かんだでしょう。
かな:ええと、幹くん。いいかなぁ?
(かなは、顎に手を当てて、不思議そうに幹を見つめる)
幹:そうですか、かなさん。言葉の深さに、圧倒されてしまいましたか。
かな:あのね、あなたの発音、シュもスィもなくて、全部、ただの「シ」の「シフト」だから、何を言っているのか、さっぱり分からないのよ。
幹:えっ。バイトのシフト、小麦粉をシフト、ガリバー書いたシフト、データの中からシフト。
かな:うん。全部同じ音で連呼されているようにしか、私の耳には届かない。
幹:そんなはずは。かなさんって、英語バリバリですよね。
かな:バリバリって意味わからないけど。もうね、ガリバー旅行記のガリバーが、必死に小麦粉をふるいながら、バイトの勤務交代をしてるのかなって、ちょっと心配になっちゃった。
(かなは小さく笑いながら、紅茶のカップを手に取る)
幹:いや、それでも、半分は合っているような。通じているというか。
かな:文脈から意味を必死に汲み取っただけよ。でも、音で聴かせるのが、音楽だし、ラップでしょ。
(かなはカップをソーサーに戻し、幹のノートを指先で軽く叩く)
かな:とにかく、カタカナ発音のままじゃね。どれだけハイブローのつもりでも、全部同じ「シフト」にしか聴こえない。まずは口の形から、しっかり練習しなさい。
幹:そこからですか。
(幹は、がっくりと肩を落として、自分のノートを見つめる)
かな:あっ。
幹:なんですか?
かな:今言ったこと全部忘れて。ごめん。違うかも。違う。あえて、全部同じシフトで意味が通るように?
幹:えっ。
かな:バイトのシフトは生かすとして、ガリバーはどうする? 家を踏み潰さないように姿勢をシフト? 食べ物の好みを米粉から小麦粉にシフトして。ガリバー用のPCだから、私たちには、シフトキーも大きすぎて押せないでしょう? ふふ、ふふふ、面白い。
(かなの目が輝く)
幹:あ、いいです。もういいです。忘れてください。
かな:ちょっと座って。ノート広げて。シュフト(Schuft:ドイツ語で悪党)を混ぜて、四重構造で踏むのもあり? ねえ、あり?
(幕)





