箱庭コント「P.159の攻防」

【登場人物】
黒崎 文
:ここあん高校生。文芸部部長。三島文学の信奉者。一語一句を読み飛ばせない性格。
菜箸 千夏:ここあん図書館主任司書。几帳面で、館内の静寂と秩序を何より重んじる。
聖 林太郎:ここあん大学院生。映画サークル「アーヌエヌエ」元幹事長。映画のことになると声のボリューム管理ができなくなる。

【場面設定】
夏の夕暮れ時。ここあん図書館の片隅にある窓際の閲覧スペース。黒崎文がテーブルで角川文庫『夏子の冒険』を広げたまま、眉間に皺を寄せて固まっている。菜箸千夏がすぐ横で返却本を書架に戻す作業をしている。

菜箸千夏:(本を棚に差し込みながら、小声で)黒崎さん。

(黒崎文は微動だにせず、ページを睨みつけている)

千夏:黒崎さーん。さっきから30分以上、同じページを開いたままですよ。もしかして、寝てます?

黒崎文:愚問。(顔だけをゆっくり千夏へ向ける)寝てる人に、「寝てますか?」って声かけないでしょう? 進めないのよ。次の行へ。

千夏:活字の森で遭難しないでください。ここあん図書館は、心の安全地帯なんですから。

:何の気休めにもならないメッセージをありがとう。

千夏:(少しだけ、むっとする)貸出処理をして、続きはお家で読まれてはいかがですか?

:三島由紀夫の著作を前に、そんな軽々しい真似ができるわけないでしょ。私の文学的理性が、この159ページの12行目で通行止めを食らっているのよ。

千夏:本来、利用者が読まれている本に介入してはいけないのですが。(と言いつつ、文の前に置かれた文庫本を覗き込む)『夏子の冒険』ですね。私も高校生のときに読みました。

:読んだ? 読んだのに、このページに何の違和感も覚えなかったの? それとも、あまりに昔の話で忘れちゃった?

千夏:(少しだけむっとする)これって、なんでしたっけ、夏子が仮眠しようとしてて、犬の遠吠えに怯えている場面ですね。

:そうよ。というか、書いてあることを読んだだけじゃない。そこで、この左ページの11行目と12行目よ。主人公の夏子は不安を打ち消すために、知っている限りの映画俳優の名前を呪文のように唱え始める。そこに書かれている並び!

千夏:「リタ・ヘイウォース、グレゴリー・ペック、マリア・モンテス、ジェイムス・ステュアート」。ずいぶんと華やかなおまじないですね。マリア・モンテスって、誰だろう? あ、教育者でそんな人がいたような。

:はぁ。マリア・モンテッソーリでしょ、それは。司書さんは、知らなくても、読み飛ばせるクチね。マリア・モンテス。「テクニカラーの女王」と呼ばれたエキゾチックな美女。生命力の塊みたいな女優よ。夏子って、北海道まで熊を撃ちに来たんでしょう? 夏子が自分を投影するにはぴったりだわ。問題はそこじゃないのよ。グレゴリー・ペックとジェイムス・ステュアートって何なのよ。

千夏:何なの、と言われましても。どちらも、有名な俳優さんですよね。

:誠実で無害な紳士の役ばかりじゃない。危険を求めて北海道の原野まで突っ走ってきた夏子にとって、一番退屈で興味のないタイプのはずよ。なぜ夏子の口から、この二人が出てくるの。矛盾しているわ。

(背後の棚から、聖林太郎が映画雑誌を抱えて身を乗り出す)

聖林太郎:(息を潜めた早口で)黒崎さん、それこそが三島のリアリズムなんだよ。

千夏:ああ、びっくりした。林太郎さん、忍び足で会話に混ざらないでください。

林太郎:ごめんね。でも、映画の話と来たら、黙っていられないよ。真っ暗な北の大地でガクブルの女の子が求めるのは、「絶対に裏切らない、退屈なまでの圧倒的善人」なんだ。

:圧倒的善人? この村にいないタイプ。

林太郎:そう。ここあん村にはいない。グレゴリー・ペックの揺るぎない知性。ジェイムス・ステュアートの隣人愛。この世界の二大紳士で精神の防波堤を築きつつ、リタ・ヘイウォースの美貌で武装し、マリア・モンテスの野性で敵を威嚇する。完璧な四重奏だよ。

:なるほど、防波堤としての紳士か。一理あるわね。

林太郎:ちなみに、いまはリタ・ヘイワースっていう事が多いよね。名前に、利己と利他の「利他」と「平和」が入ってるってすごいよね。

:本人は、きっとどうでもいいって言うわよ。

林太郎:ヘイウォースの「ウォー」と正反対というか。あ、ちなみに、映画『ショーシャンクの空に』の原作は、スティーヴン・キングの中編小説『刑務所のリタ・ヘイワース』だから、覚えておくといいよ。

:林太郎さーん、こっちの話に戻ってこられます? さっきの「防波堤としての紳士」論だけど、致命的な問題が残っているわ。

林太郎:なんだい? ああ、ちなみに、グレゴリー・ペックは『白い恐怖』で精神錯乱の記憶喪失者を演じ、ジェイムス・ステュアートは『めまい』で偏執的なストーカーまがいの男を演じて、固定化された殻を破ったとか、そういう話? それでも解決しない?

:(林太郎の話はスルーして、文庫本のある部分を指さす)ここに書いてあるでしょう、「知っているだけの映画俳優の名前をあげていく」って。つまり、夏子はもっとたくさんの名前を唱え続けたはずなの。三島が紙面に残したのは4人だけ。じゃあ、書かれなかった「5人目のスター」は一体誰だったのよ。

千夏:そこを突き止める必要はありますか。物語の本筋は、夏子の冒険ですよ。

:千夏さんとは違うもの。ここを読み飛ばせるわけないでしょ。当時の読者がこれを読んだとき、脳裏に浮かんだはずの5人目を特定しない限り、私は夏子と同じ夜を過ごせないわ。

(林太郎が目を輝かせてメモ帳を取り出す)

林太郎:面白い。この小説が書かれたのはいつ?

千夏:(文より先に、早口で)1951年。(不敵そうに、文に向かって微笑む)

:(唸り声)ぐるるるる。

林太郎:なるほど。そっか、先ほどあげた『めまい』だけど、あれは1958年公開だから、例として不適切でした、失礼! で、主人公夏子の年齢は。

:20歳。性格は情熱的で一途、やや突飛で人騒がせなお嬢様(勝ち誇った笑みを千夏に向ける)

(千夏、悔しそうに手にしていた本をぎゅっと丸めていることに気づき、あたふたする)

林太郎:となれば、5人目はハンフリー・ボガート。ハードボイルドな男気にすがるというのは?

:却下。ボガートの煙草の煙は、北海道の澄んだ夜気には重すぎるわ。

林太郎:ならば、ジョン・ウェインはどうだ! 西部劇の英雄なら熊も一撃だ。

:夏子が自分で戦う前に男が銃を撃っちゃうでしょ。台無しよ。

(千夏が、林太郎と文の会話にすっと割って入る)

千夏:(小さく咳払い。囁き声で)お静かに。小声でもおふたりの熱量が規約違反のレベルです。だいたい、不安を消すためなら、映画俳優などという実体のない幻影を呼ぶのが間違いなのです。もっと確固たる、現実に根ざした存在を唱えるべきです。

:存在? だれ? もしくは、何?

千夏:森清。

:だれ、それ。

千夏:日本十進分類法の父。図書館学者です。夜の闇に怯えたら、ゼロ類総記、一類哲学、二類歴史と唱えればよいのです。あらゆる知識が整然と棚に収まっていく秩序の美しさで、どんな邪念も消し飛びます。

:そんなの覚えられないわよ。

千夏:それよりも、黒崎さんにここで大事なお知らせがあります。そろそろ閉館時間です。黒崎さんに残されているのは、本を戻すか借りるかの2択です。

:ここさ、北海道の牧場主が夏子を見る目つきがちょっとやばいの。70年前の夏子のピンチを私が救い出してあげないと、帰れない。

千夏:文さんが読んでも読まなくても、結末は変わりませんから。

:あ、それ言っちゃだめなやつじゃない? 本好きが減るよ。

千夏:失礼しました。では、続きはお家で、ご自身のペースで救出してあげてください。

:(うなる)ぐるるるる。

林太郎:俺も5人目のキャスティングが決まるまで、気になって今夜は眠れそうにないな。ゲイリー・クーパーだったのかな。

(そのとき、館内に、閉館を告げるオルゴールのメロディが静かに流れ始める)

千夏:閉館時間です。

(文が、持っていた文庫を林太郎に渡す)

林太郎:え、続きは読まなくていいの?

:だって、もう何度も読んだもの。林太郎さんにあとは譲るわ。映画サークルの元幹事長のプライドにかけて、5人目を見つけたら、私に教えて。

千夏:何か思いついても本に書き込まないでくださいよ。

林太郎:書かないよ。

(幕)

作・千早亭小倉

黒崎 文|箱庭ここあん村の住人紹介
氏名:黒崎 文(くろさき ふみ)年齢・性別:10代後半(高校生)・女性肩書:ここあん高校(私立鳥瞰学園)文芸部部長ここあん高校の絶対的支配者/矢尾リリカのライバル(?)部室の窓際で、琥珀色の麦茶をウイスキーのようにグラスで嗜む孤高の美少女。…
菜箸千夏|箱庭ここあん村の住人紹介
ここあん村立芸術図書館・移動図書館担当司書。NDC(日本十進分類法)と完璧な秩序を愛するが、復興の現場で予測不能な「物語」に出会い変化していく。愛車はロマコメ号。[司書/菜箸千夏/プロフィール]
聖 林太郎|箱庭ここあん村の住人紹介
氏名:聖 林太郎(ひじり りんたろう) 年齢・性別:20代前半・男性肩書:ここあん大学の自主映画サークル「アーヌエヌエ」元幹事長ハル(恋流波陽)たちの1学年先輩にあたる大学4年生です。大柄な体格に似合わず、ビリー・ワイルダーなどを愛する生粋…
ここあん村立図書館|箱庭ここあん村の中心スポット
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[コント台本・掌編 約600本]

主な舞台は、椎名町三丁目から広がる箱庭「ここあん村」。箱庭コント作家・千早亭小倉の手による、どこか懐かしい日常劇やクスッと笑えるコメディ、沁みる掌編を絶賛公開中です。これからも「読むシットコム」の世界を追究していきます。
*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。 *The articles on this site were written by a human, peppered with AI. *無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|箱庭コントを紡ぐ 話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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